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第1023話 contrail(8)

「暗黙の了解みたいなさあ。風呂や洗濯機は先輩から順に使うとか。そういうの、ほんと苦手なんだよねえ。二人は体育会系だから平気かもしんないけど」 「いやいや、うちの部活はそんなひどい上下関係はなかったから。な?」和樹は涼矢を見る。「特に俺らの代は、こいつが副部長やってたし」 「へえ、田崎が? ちょっと意外」 「意外だろ? でも、結構この人、学祭でバンドやったり、体育祭で応援団やったり」 「余計なこと言うな」  涼矢が和樹を制する。本気で嫌がっているときの表情だ。 「それと、俺、深沢になったから田崎じゃなくて深沢と呼べ」 「はい?」  ようやく哲が箸を止め、ポカンとした顔で涼矢を見た。 「父親の姓を名乗ってたけど、母方の姓になった」 「離婚したの?」 「逆」 「逆?」 「……法律婚したんだよ。で、父親が母親の姓になった。俺もついでにそっちにした」 「ああ、そういうこと。まあ、そうね、相続のこと考えたらそうなるよね」  哲がするりと納得したのを見て、和樹は少し悔しく思う。こんな瞬間だけは、どうしても哲が自分よりも涼矢の近くにいる気がしてしまう。 「ふかざわ」 「濁らない。ふかさわ、だ。深い、に、旧字体じゃないほうの、さんずいの沢だ」  涼矢は「さ」を強調する。 「タザキじゃなくてタサキで、フカザワじゃなくてフカサワ。深沢涼矢、ね」言いながら、哲の指がわずかに動く。「さんずい多いね」と続く言葉に、漢字を確認していた動きだと知る。 「気にしてるんだ。言うな」 「そんなこと気にしてんのかよ」  哲が笑った。 「うるせえな」 「俺もさあ、こどもの頃は、あっそう、なんてからかわれたなあ。ほーんとガキって馬鹿だよな」 「あっそう?」  和樹が聞き返す。 「俺の苗字。麻生」 「あっそうか」 「わざと? 今のはさすがにわざとでしょ」 「違うよ、つい」 「田崎の……じゃなくてフカザワ……じゃなくて。ああ、もう、涼矢でよくない?」 「よくない」  涼矢と和樹の声が重なった。 「ははっ。おまえらも相変わらず仲が良いことで」  哲の冷やかしが始まるとろくなことがない。それを察知して和樹が話題を変える。 「哲は、ほんとはサトシだよな?」 「うん、そうだよ」 「なんでテツって呼ばせてんの」 「呼びやすいだろ、そのほうが」 「そうかな? 大差ないと思うけど」 「……あんまり好きくないの」 「サトシが?」 「んー。名前が嫌いなわけじゃなくて、そう、呼ばれるのが」 「なんだそれ」 「だからさ、俺をサトシと呼ぶ人間てのは、嫌な奴ばっかだったんだよ。中学のとき、俺をいじめてた奴とか」 「でも、倉田」言いかけて、涼矢は黙る。倉田が哲に別れを告げたあの日、確かに「さとし」と呼んでいたのを覚えている。「……まあ、いいや」 「お気遣いなく」哲は笑った。「そうね、ヨウちゃんもたまに呼んでた。だから合ってるじゃん? 嫌な奴だけがそう呼ぶ」  どこか投げやりな物言いに、何故か和樹のほうが胸がチクッとした。倉田が哲にとってそんな存在だったはずがない。それでも「嫌な奴」と呼ぶのは、執着の裏返しではないのか。 「留学先では?」  和樹が聞く。 「テツだよ。そう呼べって言ったから」 「仲良い奴、できた?」 「それなりに」 「日本人ばかりで固まったりしな……さそうだな、おまえは」 「しないよ」哲が笑った。「でも、気がついたら周りはアジア系の留学生ばっか、ってことはあったかな。あ、別に差別されたってのじゃないよ? メシ食いに行くのでも、地元の学生のネイティブスピードについていけない者同士でつるみがちになるっていうか。英語で話せるだけでも気楽だし。それも最初のうちだけだったけどね」 「英語で気楽、か。すげえな。哲ならどこででもやっていけそうだよな」  和樹はやっかみと尊敬半々の本音を吐いた。哲は曖昧に笑うのみで、それすらも誤魔化すように次の一口を口に運んだ。 「後期からは三年に戻れるのか?」  そう聞いたのは涼矢だ。 「うん。向こうでの単位も認められるからね」 「あっちに残るかと思った」 「そうしたかったけど、奨学金は一年間だけだったし」 「優秀な成績でも?」 「優秀な成績でも」哲は味噌汁を飲み干した。「単位だけなら二年分取ったよ。だからって四年に戻れるわけじゃないんだよなあ」 「え?」  さすがに涼矢も顔色を変える。 「でもその分、来年は履修科目を少なくできるし、司法試験メインでやれそう」  ふ、という短い笑い声が和樹の耳に届いた。涼矢の声なのは分かるが、どういう笑いなのだろう、と思う。単純な賞賛か。驚きか。哲には敵わないと白旗を揚げたのか。いずれにせよ、自分に向けてそんな笑い方をすることは今までもなかったし、これからもないのだろう。 「やっぱり弁護士の目標は変わってないんだ? 日本で?」  和樹が言う。 「そうだな。弁護士かどうか別にして、海外で働くことも考えないわけじゃない。行ってみて、正直、楽だったし」 「楽って?」 「雑な英語で、雑にコミュニケーション取って、雑な人間関係にしといたほうが、そりゃ楽でしょ。面倒なことになりそうになったら、ワタシ、コトバ、ワカリマセーンで済む。日本にいる外国人にもいるだろ、そういうの」 「……いるかもだけど、それじゃなんていうか」 「親友も恋人もできないとか言っちゃう? 言いそう、都倉くん」

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