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第1話

 金に困っているとは思えなかった。  院生だった頃には既に新進気鋭の画家としてアート界では注目されていたし、三〇歳になる前に大きな賞も獲得して一躍「時の人」となった。そこで浮かれてテレビタレントまがいのことをするわけでもなく、淡々と作品を創ってはコンスタントに個展を開いている。  公表した作品に買い手がつかないことはない。ハガキほどのサイズしかない小品一枚であっても万単位の値がつくと聞き、驚愕する。  だが、そんな小品にだって、寝食を忘れ何日もかけて取り組んでいると知れば妥当、もしくは安いと感じられるようになった。そのぐらいには、深く付き合うようになった。――メンタル面だけで、身体的な「付き合い」は相変わらず何もないけれど。  創作の佳境に入って忘れるのは寝食だけではない。入浴や着替えといった行為も疎かになる。アトリエとして使っているのは(しずか)さんの友人のガレージであり、簡易なキッチンとトイレがあるだけで、シャワー設備はない。 「玄さん、そんな不潔な身体で新年を迎える気ですか」  そう言ったのは、少なくとも風呂に入らず四日目を迎えた日の大晦日のことだ。そんな日までまだ仕事をしていると聞いてやってきてみれば、不精では済まされないほど髭も伸びている。 「無理」  玄さんは一言で却下し、絵の具がついたままの手でパンをちぎり、口に放り込む。そのパンだってさっき僕がアトリエを訪問する時に買ってきたものだ。昨日から何も食べてないと聞いたから。 「次からは食パンにしてくれ。バターたっぷりとか、そういうのじゃないやつ」 「ツナ缶も付けましょうか」  皮肉のつもりで言った言葉に、玄さんは素直に頷いた。 「そう、食パンならサンドイッチにもできるし、消しゴムにもできる」 「不健康、不衛生」  玄さんはパンをちぎる手を止めて、僕を見た。一瞬きょとんとしてから、破顔一笑という感じで笑った。 「ついでに不安定だ。ここのところ、この一枚にかかりきりで金がない」  目の前のキャンバスはすごく大きい。とある銀行の本店の壁に飾られるものなのだそうだ。 「お金はあるでしょ。その絵の銀行に、うなるほど預けてあるんじゃないですか?」 「手持ちの現金がないんだって。おろしに行く間がない。(あまね)、代わりにおろしてきてくれよ。ついでに、何日分かの食糧を買ってきてくれ。凝った調理が必要なのはダメ」  ここには電子レンジすらなく、調理器具といったら一口のガスコンロしかない。 「大晦日ですよ。銀行なんて開いてません。どうせおせちも何もないだろうと思って、母親に言って、うちからおすそわけ持ってきましたよ。でも、さすがに一口コンロだけじゃどうにもならないです。自宅のキッチンはもう少しましですよね? あ、そうだ、お風呂だって家にはあるんでしょう?」 「あっちは寝に帰るだけだし、沸かすのが面倒で、いつも風呂に入る前に寝ちまう」  ここは玄さんの仕事場で、自宅は徒歩圏内にあるらしい。僕はまだ行ったことはない。 「分かった、僕がやります。お風呂沸かすのも、食事も作るから、一度家に戻りましょう」 「まだこっちが終わってない」  玄さんは描きかけの絵を指さした。下絵の上にベースの色を載せたところだ。この上に更に色を重ねていくはずで、そうして仕上げの色を塗っていくうちに、今はすすけたように見える色が、ある瞬間真珠のように輝きだし生気を放つ。初めてその瞬間を目にした時には、感動に震えた。 「でも作業に一区切りついたでしょ。僕にもそのぐらいは分かる」 「おまえに分かることなんかないさ」  玄さんはサラリとそんな厳しい言葉を言う。生意気を言った僕を、貶めるつもりも説教するつもりもないことは知っている。玄さんは常に、声にした言葉以上の意味を込めて発言しない。だからきっと、玄さんの絵について「僕に分かることなんかない」のは事実なんだろうけど、そんな風に切り捨てられればやっぱり傷つくのも事実。 「絵のことはともかく、玄さんが臭いのは分かります」 「え、そんなにか?」 「そんなに、です。こんな油臭いところに引きこもってる人には分からないでしょうけど」 「道理で公園行っても猫が寄ってこない」 「僕のところには寄ってきてますから大丈夫。今の玄さんだったら、あの子たちのほうがよっぽど健康的で衛生的ですよ」  僕はこのあたりの地域猫を見て回るボランティアをしている。玄さんとも、その活動中に知り合った。  観念した玄さんはしぶしぶ重い腰を上げ、自宅に戻ることになった。一緒にアトリエを出て、歩き出してようやく、僕は気が付いた。 「僕、行っていいんですか」 「ん?」 「玄さんの家」 「あ……うん。うーん?」  玄さんは伸びたあご髭を撫でながら首を傾げた。 「人を入れたくないなら、いいですよ。僕、どこかで時間つぶすし。ていうか、帰って稽古するし」 「それはダメだ」  勢いよく玄さんが言うので、僕はびっくりした。玄さん本人も驚いた顔をしている。 「……今日はおまえが来るって言ってたから、昨日からかなり頑張って描いて、今日はちゃんと会話ぐらいはできる余裕を作ろうと」  珍しくしどろもどろになる玄さんに僕は笑ってしまう。 「確かに。集中してる時は返事もしてくれないですもんねえ」 「申し訳ないと思ってる」 「でも、分かります。あ、これは否定しないでくださいよ? ……そういう風に集中する気持ちは、僕にも分かる。僕がいたら邪魔かなと思うこともあったけど」 「それはない」 「うん。それも分かってきた。だってそういう時の玄さん、僕の存在なんか全然忘れてるもん。いようがいまいが、関係ないでしょ」 「それも違う。俺は周が」  言いかけて、そこで黙ってしまう玄さん。 「僕がなんですか」 「……いや、いい」 「気になるじゃないですか」 「今は言わない。こんな"なり"では言いたくない」 ――俺は周が  その続きが気にならないわけはない。その前の会話からして、「いてくれたほうがいい」という意味の言葉につながるはずだとは思う。そう思ってくれているんだろう、ということも実は察している。  僕が玄さんに告白したのは、半年も前のことだ。玄さんは優しい表情で頷いて、でも、自分も好きだとは言ってもらえなかった。ただ、僕の絵を描かせてほしいと言われた。それから僕がモデルとなりスケッチされることが何度かあったけれど、依頼された仕事の合間しか時間が取れないし、僕は僕で演奏会があったりしてそう頻繁にアトリエに行けるわけではなかったから、その絵は未だにスケッチ以上のものにはなっていない。 「ここ」  おせちは持ってきたものの、今夜の食事もないと言うから、どうにか開いていたコンビニに寄った。現金がなくても電子マネー決済ができる世の中で助かった。そうしてたどりついた先に現れた一軒家が玄さんの自宅のようだ。瓦葺の日本家屋なのが意外だった。今手掛けている絵はいかにも「大手都市銀行の応接室の油絵」らしい仰々しい油彩だけど、どちらかというと現代的なグラフィックデザインの仕事のほうが多いはず。そんな玄さんが住むなら、もっとモダンな洋風建築のような気がしていたのだ。 「僕の三味線の先生の家と似てる」僕は呟いた。毎日のように通うそこは、師範の表札を掲げている大げさで威圧的な門があるし、それをくぐれば鯉が泳ぐ池も見える。そういったものはこの家にはない。でも、マンション暮らしの身からすれば瓦葺の日本家屋というだけで印象は近くなる。 「古いだけだよ」 「実家……?」 「そう、今は俺しか住んでない」  ということは、もうご両親は他界されたのか。そう思っているのがバレたようで、玄さんは笑って言った。 「両親は古くて住みにくいからって、マンション暮らししてるよ」  ぎしぎしと鳴る廊下を歩いて、玄さんは居間に案内してくれた。そこにはこたつがあって、玄さんはファンヒーターのスイッチとこたつのスイッチを順に入れると、僕に座布団を勧めた。

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