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第2話

「じゃあ、風呂沸かしてくるから。周はそこでゆっくりしてて」 「僕がやります」 「いいのいいの。風呂場にさ、アトリエで汚した服とか全部つっこんであって、まずはそれを片付けないとアカンのよ」 「じゃあ、食事の支度でも」 「それは後で一緒にやろう」  僕も大した料理はできない。だから今日は「鍋」だと二人で決めて、その材料を買ってきた。  一人でこたつでのんびりするのは気が引けて落ち着かず、僕はうろうろと家探ししてキッチンを見つける。キッチンよりも「お勝手」とか「台所」とかいった言い方が似合う厨房だった。  土鍋はすぐに見つかった。ガスコンロに載せたままだったから。(ざる)も目に見えるところにあった。包丁は少し探した。種類の違う大小の包丁がずらりと並んでいた。玄さんの親はきっと料理上手な人なのだと思った。買ってきた食材を並べて、順に切る。白菜は大きすぎたかもしれない。でも煮てしまえばどうってことないだろう。だしの取り方は家庭科で習った気がするけど覚えてない。玄さんもよく知らないみたいだったから、温めるだけですぐに鍋料理が作れるという触れ込みの「水炊き鍋スープ」を買ってきてあった。  遠いところから玄さんの声が聞こえた。 「風呂沸いたよ。周も入る……あれっ」  僕が居間にいると思って話しかけたのだろう。 「台所」  僕の声が届いたようで、玄さんはすぐにやってきた。 「なんだよ、テレビでも見てたら良かったのに」 「台所、勝手に使っちゃってごめん」 「それは構わないけど、風呂沸いたからさ、周も入るかなと思って」 「玄さんのために沸かしたんでしょ、髭もちゃんと剃って」 「だからさ。俺の入った後じゃ泥水みたいになりそうだし、時間かかるから」 「僕も時間かかるよ、たぶん」 「え」  言葉を詰まらせるということは、僕の真意が伝わったのだろうか。 「そのつもりで呼んだんじゃないんですか?」 「あ、いや、その」 「やだな、違ったんですか? だったら僕、うぬぼれてましたね。恥ずかしい」  玄さんは目を白黒させたかと思うと逆ギレしたように大声で言った。 「だから、こんな"なり"でそういうこと言いたくないんだって。ちょっと待っとけ」  玄さんは言うだけ言って、わざとのようにドスドスと足音を立て風呂場に向かっていった。  土鍋に具材を入れるところまではやった。カセットコンロを探したけれど見つからなかったので、とりあえず鍋は台所に置いたまま居間に戻った。  やがて玄さんがやってきて、こたつで丸くなってる僕を見下ろした。いつも雑にひとつに結んでいる髪はおろしていて、毛先から雫が滴っていた。 「髭がないとスースーする」 「男前ですよ。でも、髪、ちゃんと乾かさないと風邪ひきます」 「おまえが風呂入ってる間にやる」 「……泥水ですか?」 「大丈夫だ、体洗ってからしか湯船に浸かってない」  僕はそんな玄さんの気遣いに笑ってしまう。 「そんなことより先に、僕に言うこと、ないんですか」  玄さんは僕の前に片膝立ちで座り込んだ。僕が立っていれば女王様の前に跪く騎士のような姿勢だけれど、あいにく僕はこたつにもぐっていたので、微妙な位置関係だ。  それでも玄さんは僕の手を取り、うやうやしく頭を下げた。 「周。俺とセックスしてください」 「へっ」  予想外過ぎた。 「玄さん、あの、それじゃなくて」 「ダメなのか」 「……ダメじゃないです、でも」 「こういうことじゃないのか」 「玄さん、あなたね、今まで誰かとつきあったことはあるでしょ、いつもそんなだったんですか」 「大体こんな感じだった」 「あなたそれでもアーティストですか」 「何を言ってるんだ、おまえこそ。セックスとアーティストとどんな関係がある。いや、関係はある。すごーくある。アートはセックスとほぼ同義だからな。おまえを口説くこととは関係ない」 「ありますよ!」  僕は矢も楯もたまらず、立ち上がり、自分のバッグと上着をひったくるようにして、玄関に向かった。きっと、さっきの玄さんのドスドスした足音よりも激しい足音を立てて。 「周、待て」 「……」  玄さんの手が僕の肩に置かれて、無理やり振り向かさせられた。なんて勝手な人だと思う。本当はドスの効いた声で、ふざけるな、と言いたかった。でも、涙声になってしまいそうで、これ以上みっともないところを玄さんに見られたくなくて、黙り込むしかできなかった。 「一個飛ばしてた。悪い。ごめん」  玄さんは僕を抱き締めた。濡れた髪が頬にくっついてくる。 「好きだよ」  そうだよ。それだよ。まずはその言葉だろう。  ようやくそれが聞けて嬉しいけれど、でも、素直にそれを喜ぶ姿を見せるのも癪だ。 「一個だけじゃないでしょ、普通に考えて」 「え」 「好きだって言葉とセックスしようの間には、まだ何段階かあると思いますよ。そういうところですよ、あなたに欠けてる繊細さってのは」 「俺に何が欠けてるだと?」  玄さんはあからさまにムッとして、俺の両肩をつかんで詰め寄った。 「だからそういうところです。僕の気持ちをなんだと思ってるんですか」 「それは」  玄さんの指先の力が弱くなり、そして手が肩から離れた。 「ごめん。確かにそうだ。……俺、何かを伝えようとすると言葉より絵になっちゃうから、たまに言葉にしようとするとうまく行かない」  その代わり、玄さんの指は僕の頬に触れた。 「と言うか、伝わってる気になってたんだ。周を描いた絵、あれを見たら分かるだろうって。でも、そんなのは俺の勝手な思い上がりだものな」  そんな言い方はずるい。  分かってたから。  初めて描いてくれた僕の絵を見た時に。  それから何度かモデルとなってスケッチされた時も。  あなたの視線に僕はいつだってドキドキしていたし、あなたが僕の形を描く時には、まるでそこをあなたに愛撫されているような気がした。そうして出来上がったスケッチは確かに僕なのだけれど、見知らぬ他人のようにも見えた。僕の薄皮一枚はいだ、もっと内側の僕かもしれない。今はまだスケッチのそれでそうなのだから、いつかこれがキャンバスに描かれ彩りを与えられたら、どうなってしまうのだろう。その絵にはきっと、あなたにしか見えない、僕にだって分からない、僕の内面が曝け出されているに違いなくて、見たいような見たくないような気持ちになる。 「玄さん」  僕は頬にある玄さんの手を握る。僕の内面まで削り出す絵を描く、愛しくて怖い手だ。 「僕とセックスしましょう」  玄さんは少し驚いたけど、すぐに飄々とした顔に戻る。一番見慣れているのは、こんな玄さんだ。 「玄さんのアートとやらを、もっと知りたいんで」  玄さんは笑った。笑って、僕の頬にキスをした。 「周は音楽家だから、さぞかし」 「良い声で啼くとか、そういうセクハラ発言はやめてくださいね。オヤジくさいんで」 「俺、周もそう繊細ではないと思うんだけど」 「あなたに言われたくない……じゃ、風呂借ります」  僕は一度は手にしたバッグと上着を玄さんに押し付けた。  こういう時は髪も洗うべきなのだろうか、と僕は悩む。なにしろ初めてだ。キスだってしたことがない。さっきの頬へのキスだけで、軽く勃起した。  でも、尻を丁寧に洗うくせに髪は洗わないというのもアンバランスな気がする。玄さんのような長髪でもないから、そんなに手間もかからない。シャンプーの蓋を開けると、さっき抱きすくめられた時の玄さんの髪の香りがした。 ――ヤバいな、これ。  嗅覚は視覚や聴覚よりもダイレクトに脳を刺激するものなのだと聞いたことがある。本当にそうだと思い知らされながら、僕は髪を洗った。  風呂場を出て、今度は次の難問に遭遇する。こういう場合、着てきた服を着るべきなのか。それとも何も着ないのが正解か。バスタオルを巻いて行けばいいのだろうか。  その時、脱衣所のドアが開いた。 「あ、ごめん、もう出てたか。これ、着替え。夏物だけど、部屋あっためてあるから」 「ありがとう」  手渡されたのは何の変哲もないTシャツと短パン。そう言えば初めてアトリエに行った時、貸してもらったTシャツもまだ返していない。くれると言っていたかもしれないが、記憶があやふやだ。  そんなことを思い出している間も、玄さんはその場から離れない。片手にはドライヤーを持ち、もう片方の手で着替えを受け取った僕は、彼の視線を遮る術がなかった。つまり、全裸を見られている。

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