1 / 62

第1話 悪い先生と純朴先生

 誰も予想していなかった大雪。  朝起きて、あくびをした拍子に少し傷む頬に眉をしかめ、そして、外の眩しさに目が眩んで。 「…………本当に、降らなくてもいいって」  そう、分厚い雪雲に向かって呟いた。そして、自分のスマホを見て溜め息をつく。  ――おはようございます。明日、新学期、始業式となりました。本日、朝の時点で、雪は止んでおりますが、積雪ありのため、各担当になっている教諭の皆さんは何卒宜しくお願い致します。  そんな校長先生からのメッセージに。それと、昨日、ビンタを食らった時にうっかり切れたらしい頬の内側に、溜め息をついてもう一度不貞寝がしたくてたまらなかった。  そんなダルい白銀の朝、俺は予想外の相手と恋を始めることになる――なんて、この時点では、もちろん本当に予想もしていなかった。  少し、食傷気味だった。  なんか違う感が、この雪のごとく積もり積もっていたのは本当だった。  けど、さすがに。  ――明日、雪、すごいらしいから、もう帰ったほうがいいよ。  は、なかったかもね。  あれは、ビンタされるかも。さすがにひどかったかも。セックス直後にあれは最低だったでしょ。グーじゃなかっただけラッキー、かな。  それだけじゃないからさ。積もり積もっていたのは俺だけじゃなくて、向こうもだっただろうから。  恋にならない。  それを向こうも薄々勘付いていた。  勘付いていつつも、現状維持をしていた最中での、あの台詞だったから。  雪の積雪予想はたいしたことなかった。深夜に降りますが山沿いで積雪三センチ程度、平野部では薄っすら地面が白くなる程度って予報だった。だから雪すごいから帰ったほうがいいってほどには降らない  そりゃ「何んだよ、それ!」ってなるかもね。  そう、なんなのよ、じゃなくて、なんだよ。グーパンチかと思ったけど、ビンタでラッキーだった。だって、相手は男。そんで、俺も男。つまりは同性間でのお付き合い、だった。  もう終わったけど。  雷みたいな一言と一緒に繰り出された雷のような平手打ちで終了した。 「イテテ」  そんな昨夜のことを思い出しながら、でかい雪の固まりをスコップで持ち上げようと力んだら、頬の内側が少し痛んだ。 「すごい、雪になっちゃいまし、た、ねっ。どっこいしょ」  昨日、男にビンタされた俺には眩しい元気な笑顔と元気な掛け声が朝の道路にこだまする。一晩で驚くほど降り積もった雪で、凛と響くその声の主。同じ雪かき係になっている純朴先生って勝手に命名させてもらった、林原慶登(はやしはらけいと)先生が、これっぽっちの雪を道の端へとスコップで放った。 「ふぅ……」  嘘みたいに雪かきが下手だな。 「まだまだですね! 頑張りましょう!」  嘘みたいにからまわってるな。  そんで、嘘みたいに鼻先が真っ赤だな。 「大須賀先生!」  元気に呼ばれて、内心、色々思いつつも、適当に頷いた。  新年早々ついてない。付き合ってた男にはビンタされるし。薄っすら道路が白くなる程度のはずがもっさりと雪が降って、まさかまさかの雪かき労働だし。一緒に、雪かきする相棒の林原先生はほぼ戦力外だなんてな。  小学校の教諭をやってもう六年目、ここの学校での勤務になったのが今年、じゃないか、去年の春だった。 「よっこらっしょ! ……どっこいしょ!」  そして、今、驚くほど童話ちっくな掛け声をかけつつ、雪かき、できてないけど、でも一生懸命にちんまりちんまり雪をどかしている林原先生は新卒で今年から小学校の教諭となった新米さん。  つまり、新人同士で家が小学校へ自力で来ることができるほど近い俺たちが雪かき係りとして、明日の始業式を無事に迎えられるように頑張っている。  他の教諭たちもそれぞれに係りがあって、各通学路の整備係り、校内の安全確認係り、等々、やることはあるけれど。 「どっこいしょ!」  たぶん、俺らはその中でも大変な係りを押し付けられてるとは思う。新人だから。 「あー、林原先生、スコップ、こう使うんですよ」 「ほえ?」  教師には見えないくらいにあどけなく見える。柔らかさそうな猫っ毛に眼鏡の彼が顔を上げた瞬間、その眼鏡がずるりと寒さで赤くなった鼻を滑った。 「挿して、そんで、押し込んで、てこの原理で、こう」 「挿して、押して、て、て、て」  ぶきっちょ。 「てこの、原理で、おっとっとっとっと」  いや、マジでぶきっちょ。  スコップで、ぼこっと取った雪によろけた彼の手助けをして、一緒にその雪を道路の脇へと投げ捨てた。 「おお、ありがとうございます」 「……いえ」 「なるほどなるほど」  これは、相当、大変な係りだな。 「挿して、押して、て、て、て、わっ……ありがとうございます」 「いいえ」 「すごい。大須賀先生、カッコいいですね」  いや。雪かきごときでそんなに褒められても、あまり嬉しくはないんだけど。  そして、またよろける先生に手を貸して上げつつ、もう少し少なめに取りましょうかって、アドバイスをしてあげた。  道の端に雪を積み上げつつ、少しばかりはここを通る車にも手伝ってもらおうかと、たまに雪を道路のタイヤが通るだろう辺りに放ってみたりして。そんな感じで半日ほど雪かきを頑張っていた。 「こんなもんですかね……明日の朝、道が凍らなければいいけど」  学校の正門から、二方向に伸びる道の雪かきがまぁだいたい終わった。朝一は俺と林原先生だけだった雪かきも、時間が経つにつれてご近所の人もぞろぞろと現れて、やり始めてくれたおかげでぐんと楽になった。 「そうですね。これなら……」  林原先生が肩で息をしながら、鼻どころか頬まで真っ赤にしていた。 「林原先生は家、どっち方向なんですか?」 「あ、僕はこっちなんです。大須賀先生はどちらなんですか?」 「俺はあっち。歩いて十五分くらいなんですよ」  正門から伸びる道は二方向、俺は右側の道で、林原先生は左側らしい。 「疲れましたね」 「はい。僕、あまり戦力にならずで大変申し訳ないです」 「……いえいえ」  そうですね、とはさすがにいえず、笑顔で社交辞令の返事をした。同じ小学校の教諭、同じ、一年生担当、四人いる一年担当教諭で、打ち合わせ等で多少の会話はしたことがあるけれど、一年一組と四組、クラスが離れていて、あまり率先して話したことはなかった。 「さて、明日始業式ですし、ここらで上がりましょうか」 「あ、はい」 「俺がメールで雪かき終わったこと報告しておきますよ」 「あ、ありがとうございます」 「いえいえ、それじゃ」 「はい。お疲れ様です」  半日労働で明日筋肉痛とかなってたりしてな、なんて思いながら、午後は適当にのんびりすごそうと思ってた。 「……あれ? え? あ、れ? 嘘、どこ? え?」  午後はのんびり一人で。 「え、ちょっ、え? なんで? なんでないの? え?」  すごそうかなって思ってんだけど。 「え、え、え? ええ?」 「あの……林原先生、どうかされました?」 「え……ぁ、えっと」  困った顔をして、何度もポケットの中を探っている。 「あの、鍵を、うちの鍵をなくしてしまったみたいで」  嘘、だよね? 「どこいっちゃったんだろ。あの、だ、大丈夫です。合鍵が、ぁっ……うちの中だ。えっと、でも平気なので、お疲れ様です。その」  鍵、どこにやっちゃったわけ? 「た、たぶん、どこかに落としちゃったんだと思うんですけど、あの、平気、です」  平気じゃないでしょ。雪どんだけ積み上げたと思ってんの? もしもここで落としたなら、道端、雪の中なら音もなく落ちて、そのままスコップで積み上げた雪の中に放っちゃってるじゃん。  そんなの探し出せるわけが。  マジで無理じゃんって思いながら、俺も林原先生も雪山を見つめた時だった。  けっこうなスピードで乱暴に駆け抜けていく車。タイヤが猛スピードで雪を弾き飛ばす音と、小さな悲鳴。 「……」  一瞬の出来事だった。溶けかかったシャーベッド状の泥混じりな雪を嘘でしょってくらい頭からかけられて、言葉なく固まった君。 「だ、大丈夫ですか?」  新年早々ついてない。積もるはずじゃなかった大降り雪の雪かき作業。考えたら、それは俺だけじゃなくて、林原先生もだった。 「あー、えっと、うち、あっちのほうだけど、歩いて十五分だから」  ついてないのは、暑くなってきたとコートを脱いでまで一生懸命雪かきを頑張ったのに、その雪をかけられびしょ濡れになった林原先生も、だった。

ともだちにシェアしよう!