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第3話

「バ、……ヴァーセイル?」  本棚の背表紙を眺めながら首をかしげる黒髪の後姿を、ソファにだらりともたれかかって眺めている。 「それね、ヴェルサイユって読むの。ヴェルサイユ宮殿の写真がこれでもかってぐらい載ってる写真集」 「見てもいいかな?」と、こっちを振り向いた真澄に頷いて見せた。  ヴェルサイユ宮殿の広大な庭は、フランス式庭園の象徴といわれている。飛行機嫌いの身としては現地に行ってこの目で確かめたいなんてカケラも思わないけど、酒の肴に眺めようと思ってフランス語教室の帰りに本屋で買った。あまりにも人工的で芸術品並みに整い過ぎているその庭は確かに美しいんだけど、実際のところは一見無造作に見えるイギリス式庭園のほうがもともとの自分の好みには合っている。  金曜日は東京の本社を出てこっちの会社へ寄り、8時半ごろに帰ってきて、取るものもとりあえず真澄と寝室にこもった。ここに彼がやってきたのは約1か月ぶり。逢えなかった日々を愛おしみ、失われた時間を取り戻すように……、なんて文学チックな風情とは無縁の、お互いを欲しいという気持ちをただぶつけ合うだけの2人が何度も、何時間もベッドの中で愛し合い抱き合っていた。  目が覚めてシャワーを浴びようと思い、時計を見たら4時を過ぎたところで、出張の疲れか単にトシのせいか、だりぃなぁなんて思いながら水を飲んで戻ってきたら、ドアを開け閉めする音で起こしてしまったのか、真澄が目を擦りながらむくりと起き上がって迎えてくれた。  窓から差し込む光はまだ完全に発色する手前のようなやんわりとしたもので、これがあともうしばらくしたらくっきりした週末の朝の光に変わる。ちょっと早いけどもう起きる? それともこのままもう1回寝る? それより、お腹減ったね。とか何とか言っているうちにやっぱりまだ眠いかも、と真澄はもう一度ベッドにもぐり込む。もぐり込んで、小さな子供か猫がじゃれるみたいに、ベッドの端に座る俺の背中をつついたり、ゲンコツで腹をノックしながら「ちゃぷんって水の音がする」と笑う。  そんな仕草を愛おしく可愛いなぁと思うけど、そのまま言うとイヤがるのも知っているから、彼に続いて俺ももぞもぞとベッドにもぐり込み、ケットをめくり上げて彼の足のつま先に唇を寄せた。まるで、高貴な人に挨拶をする時のように身を屈め、キレイに切りそろえた爪が乗っかった指の1本1本を唇でたどり、口に含み舌で濡らしていく。足の裏、かかと、そこから足首、ふくらはぎと唇を滑らせるうちに、真澄の身体が少しずつ撓みはじめる。  ぎゅっとシーツを握りしめる手は、もしも抱き合える近さに俺の体があれば、遠慮なく腕や肩や背中に回され、肌に食い込んでいたはず。そのシーツの海で優雅に背泳ぎでもするような真澄を眺めているうちに、最初こそ「くすぐったいよ」と笑っていた声を、できる限り艶かしく色っぽく喘がせてみたくなってくる。 「真澄、欲しい?」  つま先から徐々にせり上がってきた俺の唇と舌はその頃、彼の骨盤の上を行ったり来たりしていた。その動きに符合するように彼の腰が揺れ、唇の間からは赤い舌がのぞく。そっと覆いをかけるように彼の中心を左手で包み込むと、びくんと動いた。 「そんなこと、……する、から」 「だって俺、欲しいもん」  さっきまでシーツを握っていた彼の手が俺の頭にのびてきて、やさしく髪をくしゃりとかきわける。頭の上で「こっち、きて」と彼が呼ぶ声がして、覗き込むように顔を近づけると、はァと吐息を漏らし、いつものように淡く微笑みながら、 「貴方は、照れ屋さん、なのにね」 それだけ言うと、首に回した両腕で自分のほうへぐいと俺を引き寄せ、唇を合わせてくれた。 ……そんなわけで、次に目が覚めたのは、土曜日が半分終わろうとしている頃だった。 「ヴェルサイユってこんなスペルなんだね」と隣でページをめくる真澄は、大学でドイツ語をちょっとだけかじったという。『モモ』を原書で読んだというから恐れ入る。「小学生レベルぐらいの簡単なドイツ語で書かれてるらしいよ」とは言うけれど、趣味で習っているだけとはいえなかなかフランス語が体に入ってこない身としては、単純にすげーと思う。  けど、なんで『モモ』? ドイツだったらブレヒトとか、なんだっけ『若きウェルテルの悩み』とかのほうが大学のテキストっぽい気もするけれど。何となくだけど、君もそういうのが好きそうだし。 「僕は好きだけど。けど、ゼミ形式の少人数の授業で、フタをあけてみたら僕以外は女子ばっかりで。最初の授業でテキストを決める時に、僕以外のみんながそれがイイって」 「あぁ……。確かに、男ひとりで女性たちに立ち向かうなんてバカなことはしないほうがいいよな」  うん、と彼は頷く。それにしても、女の子ばっかりの中に男ひとりのゼミなんてまさにハーレム。周りの男子学生はさぞうらやましがっただろう。  取り立てて深い意味もなくそう聞いただけだったのに、彼はくるっと顔をこっちに向けるとまるで抗議でもするような視線を投げかける。投げかけておきながら、その視線の強さに反比例するように、急に声のトーンが低くなる。 「っていうか、まぁ……、なんていうか、うん、……が、いたし」  ん? ん? どうした? 「元彼女……っていうほどでもないけど、その前に告白されてちょっとだけ付き合った子がそのクラスにいて。だから、なんか気まずかった。しかも僕、フラれてるし」  そう。彼は、女性とも付き合ったことのある男なんだ。それは俺も同じなんだけど。ただ、彼が女の子にフラれるなんて、あまり想像がつかない。まぶたを閉じるたびにぱさっと音が聞こえてきそうな長めのまつげ。カフェラテの表面に広がるミルクみたいな色した肌は、きれいだけれど男性だから芯がしっかりしていて、けど柔らかさもあって、ってそれは彼を裸にしたことのある人じゃなきゃわからないか。 「何でフラれちゃったの? 何か、彼女を怒らせるようなことでもした?」  今でも充分魅力的なのに、大学時代だったら今よりさらにチャーミングだったんだろうな。そんな真澄をフる女性がどんな人なのか、見てみたかった気もする……という程度の意味深でもない問いかけをしただけなんだけど、俺が思っている以上に彼は繊細なところのある男性だった。 「…………逆。何かしたっていうより、何もしなかった。ってわけじゃないけど……、っていうか、」  言いにくいのか言いたくないのか、いつになく歯切れの悪い彼にもう少し意地悪してみたい気もするけど、話しているうちに、脇腹が触れ合うぐらい近くにいる真澄の身体がどんどん強張っていってるように感じる。  彼の手にあった写真集は閉じてテーブルに置き、拗ねたようにあっちのほうへ向いている背中を両腕で包むようにして、耳の後ろに唇をつけた。 「彼女とこんなこと、しなかったの?」  くすぐったい時にするような肩をすくめる仕草をして、小さな声で「しなかった。……したくなかった」と言いながら彼が顔を動かしたから、俺の唇はそこから離れた。すると、こっちに顔を向けた彼の唇が目の前に現れ、宙を漂っていた俺の唇はそこへ着地した。さっきまでカチコチと音がしそうなぐらい固まっていた彼の身体が、腕の中でゆっくりとじんわりと柔らかくなっていくのがわかる。ご機嫌をうかがうように上唇と下唇のほんの少しの隙間にそっと舌を滑り込ませると、小さく息が漏れるのを舌に感じた。  真澄はこんなにもキスが上手なのに。  なのに、君をフッた彼女はそれを知らないままだったなんて。唇だけ離して、額をくっつけたままこぼした俺の言葉に、彼はびっくりしたみたいで、 「キスが上手? 僕が?」 「そう。だけど?」  こんなにも甘い気持ちでいっぱいにしてしまうキスをしてくれる人ですよ。君は。 「…………」  相変わらず腕の中にはいるんだけど、額を離し、視線を少しずらしたまま、きゅっと唇を結んでいる。 「……なんか、キスが上手って言われると遊び慣れてるように思われてるみたいで……。そんな意味で言ってるんじゃないのはわかるんだけど。それに、いやだな。そんな、違う人と付き合ってた時の話なんて……」  いやいや、もちろん俺も嫉妬心がないわけじゃないけど、俺と出会う前の君を知りたいなと思ったりするぐらいの軽い気持ちで。あぁ、でもそれは、成就しなかった話だからか。君を抱いた男の話だったら、こんなふうに聞いてみようなんて気は起こらないかもな。 「僕はいやだな。自分の話もしたくないし、貴方が前に付き合っていた人の話も、そんなに知りたいと思わない。知らなくていい」  おっと。  ちょっと待てよ。  えーと、俺が今いいかげんにフランス語をかじっているのには、ささやかなきっかけがあって。テレヴィジョンというバンドのトム・ヴァーレインの官能的な歌声に惹かれて、彼を知るうちにヴァーレインという姓はフランスの作家ヴェルレーヌの名を英語読みしたものだということを知って、以来ヴェルレーヌに片脚を突っ込み、フランス語をかじるに至ったわけなんだけど……。別に付き合っていた人ではないけど、何か、その辺のややこしいことも彼には言わないほうがいいのかな。いいんだろうな。知る必要ないよな。逆に、言って盛大に嫉妬させたい気もしなくないけど、別に付き合ってた恋人ってわけでもないし。俺が勝手に憧れただけの話で、もしも「それで?」なんて返されたら、「いやいや。君に嫉妬して欲しかったんです」なんて言うのか? 俺は。 「……どうしたの?」  いやいや、とか言いながら、彼の腰を自分のほうへ引き寄せて、チュッと軽い音を立てて唇をとらえた。 「真澄、今日も泊っていく?」  え? と、さっきとはまた違った驚きがこっちを見ている彼の顔一面に広がる。 「明日、ここから会社に行けば? 途中まで一緒だし、俺も明日は少し早く出るから」  スーツもワイシャツももうとっくに乾いている。けど、彼は視線をはずしたまま、何も答えない。 「でもさ、俺たちいずれは一緒に住むでしょ?」  別に畳みかけるというわけでもなく、思っていることを言ったまでなんだけど、あぁ、そんなにも大きく目が開くんだ、というぐらいまるっと大きく見開いた目がこっちに向けられる。そんな話、今初めて聞いたという顔をしてるけど、無理もない。今初めて言ったから。 「そ、それは……」 「考えたことはない?」  いや、とか、えーと、とか。今日は妙に歯切れの悪いところを見せてくれる。 「あ……、」 「あ?」 「あ、……飽きない、かな。……って」 「飽きる?」 「一緒に住んだり、一緒にいる時間が長いと、その、」 「飽きるのかなぁ。わかんないな。俺、実家を出てから誰かと一緒に住んだことないし、ましてや恋人と一緒に住むなんて、楽しいことしか思い浮かばない」  そうかもしれないけど……、とさっきからうろうろしている視線をフローリングの床に落として、 「ひとりで過ごす時間も大切でしょう?」 なるほど。確かにひとりの時間は必要だと思う。ただ、一緒に住むといっても四六時中一緒にいるわけじゃない。 「適度な距離はあったほうがいいんじゃ、……ないのかな」  俺もそう思う。で、実際に君は今までそうやってきたんだよね。それで、どうだった? うまくいった? もしもそうじゃないなら、別のやり方を試してみてもいいんじゃないかな。 「ひとりで過ごす時間と同じぐらい、2人で過ごす時間も大切だよ」  そう言うと、やっと顔を上げてくれた。ちょっと困ったような顔をしてるけど。 「俺はやってみないとわかんないなぁ。でも、やってみてダメだったから同棲を解消するとかじゃなくて、うまくやっていくための努力は惜しまないほうなんだけどな」  前にもそんな話をしたね、と言いながら、ようやくさっきみたいに体を預けてくれる。 「貴方はもともと、そういうタイプの人?」  いや。と答えようとして、さぁどうかなぁとちょっとだけ濁した。  稲佐山に一緒に行った時、あの人は何歳だったんだろう。俺は確か今の真澄とそう変わらない年齢で、当時は彼を好きだったしいい加減な恋愛をしていたわけじゃないけど、今よりもうちょっとふわふわしたはっきりしない気持ちで一緒にいたように思う。  一度何かを決断してしまうと、もう二度と引き返せない気がして、いつも「自分はまだ若いんだし」とか、「今すぐに答えを出さなくてもいい」なんて都合のいい言い訳をしていた気がする。  けど本当はそれって、若くないよな。  何回だってやり直せるとか、そんな説教じみた考えすらなく後先も考えずに突っ走れるのが若いってことなんじゃないのかな。  俺を欲しいと言ってくれたあの人は、俺みたいに「何となく付き合ってた」わけじゃなかったんだと思う。でもその頃の俺はたぶん、あのまま一緒にいてもあの人には応えられなかった。大人の人に憧れながらも、一度でも首を縦に振ってしまったら自分の手の届かないところでいろんなことが決まっていく気がして、それが怖かったのかもしれない。  自信がなかっただけなのかな。  そんなもの、今だってそんなにたくさん持っているわけじゃない。けど、あの時の自分よりも繊細に見える真澄に、何か自分にできることがあるなら、と考える時がある。彼のために、というのはおこがましいけど、もともと万人に対して奉仕の精神を持っているタイプの人間でもないから、これはやっぱり彼を想う気持ちでしかないんだと思う。  そもそもできることがあるのかはわからないし、彼の嫌がることはしたくないし、年上ぶるつもりもない。ただ何となく、彼を大事にしたいなぁと想う気持ちのまま、ずっと一緒にいられるんじゃないかなぁと思い始めている。  それに、「好きだから」というだけで恋人同士が長く平和に一緒に居られるわけじゃない、というのも何となくわかっているつもり。それは男女問わずのお話で、とはいえ、好きだから一緒にいたいがまず大前提だし、一緒にいたい理由なんてそれだけでいいとも思う。それ以外に何の理由がいる? ぐらいは言い切れる。 「じゃあさ、真澄は俺とケッコンしてくれるんだよね? そういうことなんだよね?」 「そ、そうゆう話になるの?」 「かぎりなくそれに近いことだよ」  久しぶりに逢ったと思ったら、びっくりするような話ばっかりして。とでも言いたげな顔をしている彼をソファの背中にもたれさせ、白い首筋を噛んで小さく痕をつけた。かくん、と顎を上げると、色っぽい吐息を漏らす喉が露わになったから、今度はそこにやんわりと歯を立てる。 「俺ね、真澄のご両親に謝りたい気持ちでいっぱい」 「なんで?」 「本当だったら、真澄によく似て可愛い顔をした孫を見れたかもしれないのに、俺でごめんなさいって」  正座して、頭を畳にこすりつけるようにして、そんなふうに謝る機会が訪れるんだろうか。  真澄の喉が小さくこくんと動いて、彼の両腕が背中を包んでくれる。  俺たちは最初、お互いにちゃんと名乗るよりも先にキスして、っていや名前は最初に言ったけど、いろんなことを飛び超えて体を重ねちゃったから、後から後からいろんなことが恥ずかしくなってくる。でも、そういう繋がり方があってもいいんじゃないかなと思う。 「一昨日から君ばっかり食べてるから、今日は何か作るよ」  コーヒー豆もちょうど切れている。駅前のスーパーへ一緒に買い物に行くのも、もう慣れてきた。半年前は、マンションの向かいのコンビニへ一緒に行くだけでも妙に気恥ずかしかったのに。 「今日は僕も手伝う。……っていうか、僕も少しはちゃんとした料理を作れるようになろうかな」  頭の上で真澄が言い、「そうだ。明日の朝ごはんは、先に起きたほうが用意することにしようよ」とからりとした声を聞かせてくれる。  いいよ。それで。  金曜日にここへ帰って玄関のドアを開けた時、最初に目に飛び込んできたのが、隅っこにきれいにそろえて脱いであった真澄の革靴だった。それを見た時に何とも言えない気持ちが胸に迫ってきて、そこへ彼が奥から慌てて飛び出してきて……。  そのうち、そういう毎日が当たり前になって、時にはつまらないことで喧嘩したり仲直りしたり、びっくりするような目に遭ったりすることもあって、そういう日にも彼を想いながら一緒にいられたらすごくいいだろうな。今は真っ黒な彼の髪が白くなって、俺はもしかしたらハゲちゃったりするような日がやってきたとしても。  もしも今、隣を歩く彼が、そんなことを考えている俺と同じようなことを思ってくれていたら。それ以上に幸せなことなんて、今の俺にはちょっと思い当たらない。 End

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