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第1話 きっかけ

その日は記録的な暑さだった。日差しは刺すように照らし、二日酔いの脳味噌が湯だったようになっていた。 周りの空気は体にまとわりついて、息を吸うのも苦しい。 そう思っていたら突然地面が揺れ、俺は気がついたら動けなくなってしまっていた。 やばいと思ったが体が上手く動かなくなっていた。暑いはずなのに手足が冷たい。 意識が遠のく、もうダメだと思ったそんな時。冷たい手が額に触れ、誰かがこちらを覗き込んだ。 その瞳は、心配そうにこちらを見ていた。 一瞬その瞳に目を奪われる。それは、深く透明ば海を覗いた時に見た水底のように美しかった。 朦朧とした意識の中で、それが鮮明に印象に残った。 そして、そのキラキラとした美しい物はずっと心に残って引っかかり続けた。 今なら分かる。 一目惚れだったのだと。 ********** ざわめく食堂の中、草太(そうた)は友達と食事をしていた。 丁度昼間で、食堂は賑わっている。 「次の授業なに?」 「楡崎教授のやつだよ」 「マジで?じゃあ、代返しといてよ」 友達は軽い感じで言う。 「え。……ああ、いいけど……」 草太はおざなりに答える。 一応、聞いてはいたが意識は全く別のところに向かっていたのだ。 草太はちらりと後ろを見る。少し離れたところに座っている不知火焔次(しらぬいえんじ)が友達と座っていた。 焔次は草太と同じ大学の大学生だ。 学部は違うが同い年で、背は草太より5センチは高く上背もしっかりしていてモデルのような体型をしている。 母親が有名な女優さんらしく、そのせいかどことなく色気があって、立ってるだけで目立ってしまう容姿をしている。 流行りの髪型にシルバーのアクセサリーブランド物の服を着ている焔次は、いかにも軽薄そうな格好なのだが顔が整っているからとても似合っていた。 事実、焔次はモテる。 「ねえ。焔次くん今度、家に行っていい?」 「んー今度な」 うっすらとそんな会話が聞こえてくる。喋りかけているのはおしゃれで可愛らしい女の子だ。女の子はほとんど密着するような体勢で、話しかけている。 焔次は慣れているのか、気の無い返事だ。 こんな風に焔次は、よく女の子に言い寄られているのを見る。焔次の周りには常に何人かの女の子がいるし、参加する飲み会はいつも女の子が集まっていた。 草太は、またチラリとそちらを伺った。 焔次が食べているのは今日のBランチだ、ハンバーグのセット。草太は、それを見ながらハンバーグが好きなのかななどと考える。そして、料理がそこそこ得意な草太は、家に行ってハンバーグを作ってあげたらと想像してみる。 その時、何を話しているか分からなかった焔次が友達の方を見て笑った。 その表情を見て草太は心臓が高鳴る。 体温がジワリと上がるのを感じながら、今日は運がいいと思った。 「なあ、草太聞いてんのかよ」 「あ、うん、聞いてるよ」 もっと見ていたいけど、あんまり見てると変に思われてしまう。 草太は何もなかったかのように視線を戻し、友達との会話に戻った。 草太はゲイだ。 自分の性癖に気が付いたのは、中学生の時。気が付いたら同性を目で追うようになっていた。 周りと違うことはすぐ気が付いたが、それを黙っているだけの分別はあった。 特に草太の産まれた土地は人が少なく閉鎖的で、同性が好きだなんて知られたら確実に変な目で見られるような場所だった。 時代錯誤もはなはだしいがバレれば最悪村八分にされて頭がおかしいと責められる可能性もあった。 今はその閉鎖された土地から出られたが、だからと言ってこれをオープンにする勇気はない。 認知はされていて、それなりに受け入れられているとはいえ、やっぱり一般的ではないことだからだ。 するとまた、友達が話しかけてきた。 「なあ、草太。さっきの授業のノート全然取ってなくてさ、見せてくれないか?」 「ええ?また?しょうがないな……」 草太はため息をつきながら、リュックからノートを探す。 そのついでにまた、ちらりと焔次の方を見る。焔次はハンバーグを頬ばりながら何か楽しそうに喋っているようだ。それを見て草太は、また胸を高鳴らせる。 焔次は故郷を出て、初めて好きになった人だ。 草太は思い出す、あれは一か月前くらいの事だった。 バイトに向かうため、草太は繁華街を歩いていた。 少し遅れそうで、スマホで時間を確認しながら早足で歩いていたその時、うっかり人とぶつかってしまった。 『おい!どこ見てんだよ』 『あ!す、すいません』 いきなり怒鳴られて草太は固まる。どうやらガラの悪い人間だったようだ。ぶつかったといっても軽いものだったのに、いきなり威嚇するような態度をとるなんて明らかにタチが悪いと分かる。 しかし、草太はオロオロすることしか出来ない。周りを見ても近くにいた人間は目を逸らして離れてしまった。 相手は草太が弱そうだと踏んだのだろう。草太は男に、あっという間に自販機の陰に追い詰められた。 『ふざけんなよ、すっげー痛い。こりゃ治療費貰わねーと』 『そ、そんな……』 少しぶつかっただけなのにあまりにも無茶な要求に草太は完全に頭が真っ白になった。 バイトにも遅れそうだし焦ってくる。 その時、男の背後から声が聞こえた。 『おい、邪魔だ』 『ああ?なんだよ!っと……』 声をかけたのは焔次だった。 絡んできた男は振り向き背も高く体格もいい焔次を見て怯んだ。 近くにいると威圧感がある。 焔次がギロリと男を睨んで言った。 『なんだよ、文句あるのか?』 『べ、別に……』 男はもごもご何か言ったが、ありがたいことに、勢いが削がれたのかそのまま離れていってしまった。 『あ、ありがとうございます』 『ああ?ああ別に。本当に邪魔だったから』 焔次は草太の方を見ると、面倒くさそうにそう言った。 『で、でも助かりました。あの、何かお礼を……』 『は?別にいいよ』 『で、でも……』 『しつけーな……あ、それならジュースおごってくれよ。それでいいや』 焔次は呆れた表情をした後、少し考えそう言った。 その時、焔次は首を傾げて表情を緩めた。笑ったと言っても口を少しゆがめた程度だ。それでもその表情は優しかった。 草太はその表情に思わず見惚れる。ほんの一瞬だったけど、世界がスローモーションになったように感じた。 その後、草太は焔次にジュースを奢り、一言二言喋っただけで別れた。 おそらく、焔次にとってはなんでもない行動だったのだろう。 だけど大学の授業とバイトに追われるだけの日常には宝物のような思い出になった。 今から思えばあの時、草太は焔次に一目惚れをした。 ずっと白黒の世界を生きていた、でもその出来事があってから、世界が美しく色付いた気がする。 その後、草太は焔次を探した。しかし、名前も聞かなかったから探す手だてもない。 しかし、名前はすぐにわかった。なんと同じ大学だったのだ。 校内で見かけた時は驚いた。運命なんじゃないかとすら思った。 そうして草太は焔次の情報を集めた。 後から分かった事だが、実は草太は焔次のことを、噂程度には知っていた。焔次はそこそこの有名人で、目立つ存在だったからだ。 しかし、草太とは学部も違うし、焔次は草太とは無縁の派手な連中といつもつるんでいたので、名前は聞いたことはあるが、顔は知らなかったのだ。 それから、草太は焔次の噂を色々集めた。 焔次は経済学部の三年、草太と同じ20歳。 地元でもそこそこ名前のある実業家の息子で母親も女優だから結構なお金持ち。なんでも大学の近くにある豪華なタワーマンションに、部屋を借りて住んでいるらしい。 草太から見たら住んでいる世界が違いすぎた。 そんな事を思い出しながら、草太は友達にノートを渡す。 「コピーできたらすぐに返してね」 「分かってるって」 友達はそう言うが、それが守られたことは少ない。草太は貸したことを忘れないようにしておこうとため息をついた。 「そう言えば、今日の飲み会来るのか?」 友達がふと、思い付いたように言った。 「ああ、行けると思う」 草太は答える。 「それにしても、前はあんまり飲み会とか行かなかったのに、最近よく行くようになったよな」 「え?ああ。人と喋るのが苦手で避けてたんだけど、せっかくだからやっぱりもうちょっと慣れておかないとと思ってさ……」 草太はもごもごと答えた。 実は、最近飲み会に頻繁に顔を出すようになったのは、他に理由がある。 理由は勿論、焔次だ。 草太はなんとか焔次に近づきたいと思った。しかし大学は同じでも、草太は焔次とは接点が何も無い。 それでも、友達や知り合いと辿れば焔次と近い人間と知り合いになれる。その人間に近くにいれば自動的に焔次に近づけると思ったのだ。 事実、この作戦は成功した。 何度か焔次が参加した飲み会に入り込む事に成功したのだ。何度か喋る事も出来た。とは言え一言二言で終わったし、向こうは草太を助けたことも覚えてもいないようだった。 「なるほどね。どうせなら彼女とかも欲しいもんな」 「あ、ああ。そうだね。でもそこまで上手く出来るとは思えないけどね」 草太はヘラりと笑い答える。恋人は欲しい、でも草太が欲しいのは彼氏だし好きな人は不知火焔次だ。しかし、そう答える訳にはいかない。 とは言え、草太は焔次と付き合いたいとか恋人になれたらなんて考えてない。 焔次はどう見てもノンケだし、飲み会も女の子が目的で開かれているものだ。どう考えても草太に望みはない。 それでも、せめて姿を見たり声を聞いたり、同じ空間にいられるだけで幸せな気持ちになれる。 ゲイの草太には女の子が目的じゃないけど、いい言い訳だ。勿論、飲み会で女性に積極的にはなしかけたりしない草太は、相手にもされない。 「今日の飲み会は規模もでかくて人も多いみたいだからチャンスくらいあるんじゃね?ああ、でも不知火達も来るらしいから可愛い子は取られちゃうかもだけどな」 「そ、そうだね」 草太は焔次の名前を聞いて、思わずドキリとしながら答える。 本当はその人が目的なのだが、言えない。 そうなのだ今日の飲み会には焔次が来る。 実は昨日からずっと楽しみだったのだ。慌てて今日はバイトを休みにしてもらった。 「ここいい?」 草太は顔がニヤニヤしそうなのを堪えていると、急に誰かに話しかけられた。 「え?あ、ああ……ど、どうぞ……」 草太は少し驚いてそちらを見た。 戸惑いつつ草太が返事をすると相手は隣に座るとさらに話しかけてきた。草太は困惑する、よく見ると他にも席は空いてる。なんでわざわざ草太の隣にきたのか。 男はそのまま、また話しかけてきた。 「この間はありがとう」 「この間?……ああ、あのことか」 一瞬何のことかと草太は戸惑ったが、顔を見て思い出した。 相手は速水清隆(はやみきよたか)という男だ。最近いろんな飲み会に顔を出すようになって、知り合った一人だ。 「あの時は迷惑かけて、ごめんね」 清隆は申し訳なさそうに言った。 「いや、別に大丈夫だよ。慣れてるから気にしないで」 草太は戸惑いつつも、苦笑しながら答えた。 あの時、というのは数日前に一緒になった飲み会での出来事だ。 実は草太はかなりお酒が強い。いわゆるザルと言われるくらい強く、そう簡単に酔わない。 そのせいで、飲み会に参加しても最後までほとんどシラフ状態なものだから、酒に酔っ払った人間の世話を押し付けられる事が多いのだ。 実はいままであまり飲み会に参加してこなかったのは、この理由もあったりするのだ。 そして、その飲み会でも当然その流れになって、案の定酔ってフラフラになってしまった清隆を草太は世話する羽目になった。 それを思い出しながら、草太は素っ気なく返事をした。よくある事だから、本当に気にしてなかったのもあるが、実は草太は清隆の事が苦手だった。 ちらりと周りを見る。 思った通り、女の子数人がチラチラこちらに注目していた。 実は清隆もこの大学内で知らない人が居ないくらいのイケメンで有名なのだ。 焔次とはまた違った爽やか系のイケメンで、しかも性格も良く高校生の時は生徒会長をしていたとか、大学は主席で入って入学生代表で挨拶をしていたくらいの秀才で、当然学業の成績も良く、女性はもとより男からも慕われている。 まるで漫画にでも出てきそうな人物で、だからこそ草太は苦手だった。 焔次とはまた違った意味で、住む世界が違いすぎる。 今も不用意に注目されて、居心地が悪くなってきた。 草太は早くここを離れたくて食事の残りを口に詰め込む。しかし、清隆はさらに話しかけてくる。 「でも、本当に迷惑かけちゃったから。お詫びをしたいなって思って。空いてる時間あったら食事でもどう?おごる」 「え?しょ、食事?いや本当にいいから」 清隆はまるで、女の子を誘うように爽やかに言うものだから草太は戸惑う。 草太は慌てて忙しい雰囲気を出しながら立ち上がる。 「ごめん、授業があるから行くね。本当に気にしなくていいから。じゃあ」 「あ……」 流石にここまでしたら諦めたのか、何か言いたそうだったが清隆はそれ以上は何も言わなかった。 草太はホッとしながらも、少し感心する。 酔っ払いの介抱は何度もしてきたがこんなに丁寧にお礼を言われたのは初めてだ。大抵はその場でおざなりのお礼か、酷い時には覚えてもいなかったりする。 男女共に人気があるのも理解できた。 これは妬んだりする方が格好悪く見えるし、慕う人間が多いわけだ。 でも、その飲み会に行ったのは焔次に少しでも近づきたかっただけだし、それ以外にはあまり時間を使いたくないのが草太の正直なところだ。 清隆は悪い人間じゃなさそうだし、申し訳ないが今後はもう話すこともないだろう。 そんなことを考えながらリュックを背負った時、何故か焔次がこちらを見ていた気がした。 しかし、気のせいだったようだ。焔次は何も無かったように友達と話し始めた。 「まさかね……」 草太は、少しドキドキしつつその場を離れる。 食堂を出る時、ちらりともう一度焔次の方を見た。気のせいでもなんだか嬉しかった。 焔次は相変わらず友達と喋っている。 それを見ただけで草太は心がじんわり熱くなった。 草太は今日は運がいいと思う。食堂で姿も見れたし夜の飲み会でも会えるはずだ。 もし、もっと運がよければ会話も出来るかも。 そんな事を考えながら草太は食堂を出て授業に向かった。 その時には焔次のことで頭が一杯で、清隆の事はもう意識から無くなっていた。

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