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夜明け前の青(湊・月華)
後部座席に乗り込むとドアが締まり、遅れて土岐川が隣に座る。
車内には、さる音楽家の弾くショパンが流れていて、ふっと息を吐いた。
静かに流れ出した窓の外の景色を見るとはなしにぼんやり見つめていると。
「……浮かない顔だな」
言葉ほど気遣う声音でもなく、隣の土岐川がこちらを見ていた。
人によってはこのトーンを冷たいと感じるかもしれないけど、僕は出会ったときからずっと、この男のこういうところが気に入っていた。
近しい人の感情の揺れは、思考に影響する。
僕は自分で思い描いている自分ほど冷静じゃないから。一番近くに置くのは、感情のぶれない人間がいい。
「何か一味、足りない気がするんだよね……」
「一味?」
「でも何が足りないのかが上手く形にならなくて、もやもやしてるとこ」
「『SILENT BLUE』の話か。確かに、人員は十分ではないとはいえ……染井達の采配に特に問題があるようには思えないが」
その言葉には頷く。
『SILENT BLUE』のスタッフは、そもそも僕が「これ」と思った人間しか採用していない。
先程も軽くロールプレイをして、素晴らしい店に仕上がってきていることを確認したばかりだ。
何も問題はない。
問題はないのだが……。
「僕は黒崎の屋敷で生活するようになってからずっと特濃の人間関係にさらされてきたから、あれでもいいとは思うよ。ただ、……なんか、胸焼けしない?」
前々から利益度外視の高級クラブを作りたいと思っていて、数年前、持っていたレストランチェーンのうち一店舗を任せていた染井兄弟を抱きこんで、これまで企画を練ってきた。
だが、スタッフが集まり始めたくらいの頃から、「何か足りないものがある気がする」という気持ちが拭えない。
「たまには、さっぱりしたものが食べたいというお客様のニーズにお応えできてない気がする……」
そうか、という頷きには、相槌以外のものは含まれていなかった。必要とされていない限り、土岐川は私見を述べることはないのだ。もちろん、僕も今は求めていない。
『SILENT BLUE』の事に関しては、まず僕が求めているものを原案として、そこから拡げるという方式で全てやると決めている。
なので、その後どう転ぶにしても、とにかく自分の納得するものを見つけたい。
「ただ、その『さっぱり』もメインになれるさっぱりじゃないと……」
その時、吸い寄せられるように、ガードレールに座る一人の青年が目に入った。
自分でも、どうしてそれに目を止めてしまったのか不思議だった。
ファッションではなくただ少し伸びてしまっただけの鬱陶しそうな髪と、清潔感はあるがくたびれた無地のパーカー。
個性というものに乏しく、どこからどう見ても群衆の一人だ。
ただ、ぼんやりと宙を見つめる瞳が、泣いているのかと思うほど感傷的で、
……笑ったら、どんな感じなんだろう。
「……止めて」
「どうした」
「あれのような気がする」
衝動的に車を止めさせて、少し離れた場所に降り立つ。
人の行き交う歩道を歩き、座る青年の斜め前、向かって右側から声をかけた。
「ねえ君、今時間あるかな?」
僕はこれと思った人間には誰にでもこんな風に話しかける。
どんな反応をするか、またそれを見た自分がどんな風に思うのか、何かとてもワクワクしていた。
彼は、ゆっくりとこっちを見た。
微かに驚いたように目を瞠って、すぐにそれを伏せて首を横に振る。
「あの……ごめんなさい。時間はありますけど……元気がなくて」
ふむふむ、この反応を見るに、この子は地味っぽいけどナンパされた経験があるみたいだ。
そんな低俗な輩と同じというのはあまりいい気分ではないけど、僕のセンサーグッジョブ。
「そっか……元気がないんだ」
返事をしながら、目線だけで時間をつぶしていてほしいと土岐川に伝えて、青年の隣に少し間をあけて座る。
ガードレールに座るのなんて、初めてかもしれない。あまり心地よくはないけど、何事も経験だ。
彼はこちらを何度かちらちら見ていたけど、立ち去ることもなく、ずっとそこにいた。
「あなたも、この場所に用があるんですか?」
勝手に付き合って道行く人を見ていると、気まずいのか、気になるのか、今度は彼の方から話しかけてくる。
そうだよ、と肯定すると、困った顔になった。
自分がいたら邪魔ではないかという顔をしてる。でも、さっき話しかけられたから、勝手に立ち去っていいものかどうか悩んでるのかな。
真面目で、優しい子だな。
……移動しても追いかけてくる類の輩と思われていて、警戒してるだけかもしれないけど。
「暇だから、よかったら話し相手になってくれる?聞いててくれるだけでいいから」
「……………………はい」
いい子だけど、押しに弱いのはちょっと心配。さっき断ったのにもう頷いちゃってる。
「今度、自分の店をオープンするつもりなんだけどね」
「自分の店……凄いですね」
「自分の考える最高の場所と、最高のスタッフを用意したんだけど、何か足りない気がしてずっともやもやしてるんだ」
「それを……探してるんですか?」
「そうだね。そこは、僕の大事な場所になる予定だから」
「大事な場所…………」
繰り返された言葉には、魂が宿っていなかった。
喪失。
生気の失せた瞳からは、その二文字を強く感じる。
自分から呆気なく去ってしまったそれを、どこか他人事に感じながら遠くから見ているしかない虚脱感。
「(ああ……そっか)」
これは夜明け前か。
あの暗闇だ。
喪失感は、暗闇に似ている。
どうしようもなく孤独で、もう二度と光など差さないのではないかと錯覚してしまう。
……僕も、その感覚を知ってるよ。
一度目は、母の死で。
二度目は、父の死で。
大事な場所など、簡単になくなるものだ。
けれど失ったものは、僕自身が勝ち取ったものではなかった。
誰かから与えられただけのもので、僕自身が努力して得たものではない。
それは作れるんだと、教えてくれた人たちがいて。
求める限り、信じる限り、……愛する限り、それは何度でも生まれてくるものだと。
そのことを、彼にも教えてあげられたら。
……ここまで来て、先程までのもやもやがなくなっているのに気付いた。
この子は、『SILENT BLUE』に絶対必要だ。
どんな手を使ってもスタッフにする。
心に決めて、再度アタックしよう。
「ねえ、もう一度聞いていい?今、時間あるかな?」
「え……」
「僕はね、神導月華。会社を買ったり作ったり投資したりする仕事をしてるんだ。それで、今度大切なお店をオープンする予定なんだけど、スタッフに君がいてくれたら、もっと最高になる気がする」
困惑している黒目がちの瞳が、じっとこちらを見ていた。
伸ばされた手を掴むのか、掴まないのかで悩んでいるけれど、選択肢を与えるつもりはない。
「……一緒に、来てほしい」
そのうち、彼が心から笑ったところが見たい。
夜明け前の濃紺に光がさして、それが溶け込むように薄くなっていく瞬間を。
……僕が、大切な人達からそうしてもらったように。
随分と間があった。
今すぐはダメかな、と、後日またにするべきかと腰を上げかけたところで。
「……桜峰、湊です。住むところも何もなくて……、それでよければ、お願いします」
熱意が伝わったのか、そんな風に言えば逆に相手を引かせられると思ったのか。
どう考えても怪しい勧誘に乗ってきたいたいけな青年に、僕はよろしくと笑って、右手を差し出した。
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