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極道とウサギの甘いその後5-19

 カツ…、カツ…、カツ……、 「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……、」  規則的な靴音が、どこまでも追いかけてくる。  全速力で走っているのに、優雅にすら聞こえるゆったりとした足音を振り切ることができない。  まるで、覚めない悪夢のようだ。  じわじわと迫り来る恐怖に、柳は恥も外聞もなく泣き叫んで助けを乞いたくなるのを、気合いと根性でなんとか耐えた。  何故だ。どうしてこうなった。  全て上手くいっていたはずだったのに。  深夜。金蔓だったグループの拠点を全て潰されて不機嫌な柳は、部下の運転する車で自宅へと移動中だった。 「(チンピラどもが……)」  繁華街から住宅街に差し掛かり、一気に街灯りの減った薄暗い通りを横目に毒づく。  『オルカ』のような規模の小さいグループが、組にも属していない末端の資金源を把握していたとは想定外だった。 「(……まあいい、奴らの代わりはこれからいくらでも出てくる)」  まともな職にありつけない奴や、まともに働くことが馬鹿らしいと思う奴らがいなくなることは絶対にない。  白木組が力を持ち続ければ、わざわざこちらから金を要求しなくても、後ろ盾が欲しくて頭を下げてくる奴は絶えないだろう。  幸い今回の件では、お優しい松平一行が加減して戦ってくれたおかげで、組の方はほぼノーダメージだった。  懐事情が戻るまでしばらく大人しくして、松平組が油断した頃にまた遊んでやればいい。  それまでにどんなちょっかいを出そうか考えておこう、と口元を歪ませたその時である。  なんの前触れもなく、ズン、と車体に衝撃が走った。  同時に、キラリと光る何かが一瞬眼前をよぎったような気がする。 「なに、」 「えっ?う、うわ……!?」  何事だ。  その問いかけは、部下の驚愕の声と、目の前で起こった異常事態のせいで最後まで言葉にならなかった。  目の前で、運転席が離れていく。  まさかあの衝撃は、車体が両断されたものだったとでもいうのか。  柳は、コントロールを失った車の後部座席から外に放り出される。 「ぐっ……!」  数メートル離れた場所から部下の悲鳴が聞こえ、両断された車はそれぞれ塀や電柱にぶつかって止まった。  アスファルトに体を打ちつけた衝撃で、全身が強張る。  なんなんだ、これは。  事故?否、一体どんな事故が起これば、車が綺麗に真っ二つになったりすると言うんだ。  では、故意に?  だが、何故、何者がこんなことを……。 「こんばんは」  頭上から聞こえた艶のある声に、柳は混乱する頭ごと痛む体を起こした。 「……お前、いや、あなたは……」  今にも消えそうな古い電灯が、スポットライトのように細すぎる身体を照らし出している。  ブルーグレイのラペルドシングルベストに気取ったワインレッドのアスコットタイ。荒事とは無縁そうな白く細い指には、日本刀が握られていた。  知り合いではない。だが、その姿はよく知っている。  黒神会幹部、神導月華。  組織の中でも最も中枢に近いと言われている男。  頭上に満月をいただくこの世のものならざる美貌が、今は地獄からの使者のような不気味なものに見えて、柳はぞっと背筋を震わせた。 「今日は黒神会の幹部としてじゃなく個人的に君に用があってきたから、そんなに畏まらなくてもいいよ」  現状にそぐわない穏やかな微笑みと声音に、柳は逆に混乱した。 「い、一体何の……、いや、今の斬撃は、まさか」 「わかってるんじゃない?」 「……というと?」 「お礼参りだよ」  やけに赤い唇が、にんまりと弧を描いて。  柳は体の痛みも忘れて、転げるようにその場から逃げ出した。  それは本能だった。  生命を脅かす存在への、原始的な恐怖。  足音は都市伝説のようにいつまでも追いかけてきたが、終わりのない悪夢とは違いゴール地点が見えてくる。  柳はマンションへと駆け込むと、幸運なことに開いていたエレベーターに乗り込んだ。  閉まる直前、エレベーターホールに人影はなかった。  逃げ切れたのだろうか。  セキュリティに関してはかなり気を遣って選んだマンションだ。  強引に入ろうとすれば警備員が飛んできて面倒なことになることは、頭の回るあの男ならわかるはずだから、すぐには中まで追ってこないだろう。  高層階にある自室に辿り着くと、ロックをかけた玄関ドアにもたれ、柳は大きく息を吐き出した。  ずるずると座り込み、肺が痛むほどに乱れた呼吸を整える。  脅しだけで済むと思えるほど、柳は楽観的ではなかった。  近いうちに、奴はここまでやってくる。  その前に、どこかに姿をくらます必要が……。  潜伏先に頭を巡らせていると、カンッ、キンッ、と、金属がぶつかるような音が響いた。 「……?」  何故ドアが、倒れてくる。  柳は、潰されそうになるのを慌てて避けた。  ずん……、重い音を立てて、一瞬前までドアだったものは玄関を覆う板と化す。  唖然として振り返った戸口には、先程と同じように優雅な微笑みをたたえた神導が立っていた。 「お邪魔します」 「な、……な……」  金具を全て斬った?  いや、車を両断するくらいなのだから、その程度のことは……。 「ま、まさか入口もそれで……」 「入り口は普通に入ったよ」 「え……」 「このマンションは、今朝僕が買っておいたからね」  では、ドアを壊す必要もなかったのでは?  そんなどうでもいいツッコミが脳裏をよぎったが、今引っ張るような話題ではない。  先程は本能に負けて逃走してしまったものの、相手は(恐らく一応)人間なのだ。  交渉の余地はあるはずである。 「待て、いや、待ってください。確かに松平組にちょっかいは出したが、あなたの身内には手は出さなかったはずだ」  ただ柳に報復をしたいだけならば、道中にいくらでもできたはず。  ……ということは、自分と何か取引をしたいのでは?  一筋の光明が見えたような気がして、柳は目に輝きを取り戻したが、神導が次に発した言葉は、決して期待したようなものではなかった。 「……知ってる?人の脳って、誰かから仲間外れにされた時、例えそれが全然親しくない人だったとしても、殴られたのと同じストレスを受けるんだって」 「は、……はあ……?」  突然何を言っているのかわからない。 「今回、恋人やその仲間が危険な目に遭って、湊は多大なストレスを受けたと思うんだよね」 「は………………、」 「それって、無傷だったとしても、殴られたのと同じことだと思わない?」 「それ、は……、」  神導が、日本刀の柄に細い指をかける。  神導月華が居合術の免許皆伝という噂は聞いていた。  こんなに若くして授けられるはずがない、黒神会の威光か金をチラつかせただけだと、侮蔑の言葉つきで。  だが、その腕前は先程身を以って知ってしまった。 「なますとサイコロ、どっちがいい?細長く斬るか、四角く斬るか、好きな方を選んでいいよ」 「あ………、」  神導は静かな声で、柳に絶望の二択を迫る。  どこか神々しくすら感じられる微笑み。  そう、神だとしても、それは死を運ぶ、 「安心して、僕は慈悲深いから。即死だから、痛みはないんじゃないかな。死んじゃった人に直接聞いたことはないから、わからないけどね」 「あああああああああああああ!」  耐えきれず背を向けた柳に、白刃が振り下ろされ……。

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