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第15話 恋と愛
それは小学生の頃。いつかの運動会だった。母が。優しい穏やかな母が、お弁当を持って来てくれていた。周りの同級生達は、親子でご飯を食べていて、勇気は母と二人きりだった。
「お父さん、来てくれるって言ったのに」
勇気はぽつりと呟いて、母を見る。彼女は、困ったように微笑んだ。
「お父さんは、忙しいのよ。でも勇気のことをちゃんと応援してくれてるわ。だから帰ったらいい報告ができるように、頑張ろうね」
しかし、父は夜も家に帰っては来なかった。
勇気の父はサラリーマンだった。営業周りというのが何なのか、その頃の勇気にはよくわかっていなかった。父は忙しいと言って夜も遅く、朝も早く、休日も居ないことが多かった。だから勇気にとって父は、そばに居ない存在だ。
「お父さんは、私達のために一生懸命働いて、お金を稼いでくれてるのよ」
母が寂しそうに言った。その時、勇気はそれを誇らしいこととは思えなくなった。家族のそばに居ないことは、家族を守れないことではないかと、子供心に思ったものだ。
お金を稼いでくれて幸せなら、どうして母さんはあんなに寂しそうで、僕は運動会を見に来てもらえないんだろう。
それが、幼少期の記憶だ。
中学校に上がってしばらくした頃、彼女を知った。
長い金髪をなびかせ、マスクで顔を半分隠しバイクに跨る女性が、その学校で一番強かった。勇気は憧れた。一生懸命働くこと、金を稼ぐこと、それがなんだというのだろう。彼女のそばにいたいと思った。彼女のために何かをしたい、彼女を守りたいと。
真っ黒な髪を金色に染めて、ワックスで立たせて。それまでの全てに抗った、つもりだ。口汚い言葉を覚えて、やってはいけないと言われていたことをした。母はそれでも、静かに見守っていて、父は家には帰らない。
その頃、勇気の世界の全ては、彼女だった。
「勇気」
ある時。彼女に話しかけられた。
「アンタ、なんでこういうことしてる?」
勇気は憧れと緊張と、高揚で胸を高鳴らせながら、力強く答えた。
「あなたの力になりたくて!」
彼女のそばにいたかった。支えたかった。力になりたかった。金なんかより、仕事なんかより、そばにいてくれることの方が大事だと思った。少なくとも、当時の勇気にとって正義はそうだった。
「そっか」
彼女は、ありがとね、と笑った。
彼女は髪を黒く染めて、長かったスカートを切った。バイクを捨て、静かな口調で、俯いて話すようになった。
彼女の家は母子家庭で、お金が無かった。だから、中学校を卒業したら、そのまま働くらしい。勇気はそれを人づてに聞いて、彼の中の正義が、ガラガラと音を立てて崩れるような気持ちになった。
お金が無ければ、彼女を守れなかった。
仕事をしなければ、彼女のそばにはいられなかった。
一緒にいたから何だ。やっぱり彼女も、悲しげにしているじゃないか。
勇気は、何が大切な人を笑顔にできるのか、わからなくなった。わからないまま、髪を黒く染めて、彼女と同じように、父と同じように、社会に染まることを選んだのだ。
何かしたいことが見つかったわけでもない。それでも、人の為に何かをしたいという気持ちは有って、医療系の会社に就職した。働き始めても、勇気にはまだ、何が正しいのか、何をすべきなのかはわからないままだった。
そんな時だ。
金色の長い髪を揺らし、二人の男に絡まれ、困った顔をしている「彼女」を見たのは。
今度こそ、守らなければいけない。
勇気は彼女の手を掴んだ。
「……ああ、エル……ごめんな、ごめん……」
「いいよ、大丈夫」
「……って、うぇ?!」
独り言に返事があったものだから、勇気は驚いて飛び起きた。傍には裸のエリスが横になっていて、勇気も裸のままだし、そこはエリスのスイートルームだ。
「……あ、……そうか、俺達……」
昨日の夜、酒の力を借りずに。
昨夜した事を思い出して、勇気は顔を赤くした。改めてエリスを見る。絶世の美形だ。長い金髪は、日本人が無理に染めたそれとは全く違う、透き通った色をしている。白い肌も、整った顔立ちも、すらりと長い手足も、本当にこの世のものとは思えないほど、美しい。
なんとなく思い出した。酔って頭がおかしくなり、エリスの事を彼女と勘違いしたのだ。彼女を守りたかった、笑顔にしたかった。その後悔が、一連の事件の始まりだ。そしてエリスが笑ってくれたから嬉しくて、もしかしたら求婚したのかもしれない。
「だからって、許される事じゃないよ……」
「ン?」
「……エル、……ごめんな……」
「なあに? ユウキ」
エリスが笑顔で勇気を撫でてくる。その愛しげな様子に、胸が痛くなる。
「俺……最初、エルのこと、違う人だと思ってた、んだと、思う。覚えてないけど……勘違いしてたんだ。それで……キスしちゃった。その、違う人のこと、後悔してて、だから……」
「ふぅん」
「ふぅん、って……そんな不純な理由でお前のこと、お嫁さんにするとか、……セックスとか、しちゃったんだぜ? ホント、悪いことした……」
「じゃあ、今、ユウキは、その理由で、私と、したの? sex」
ネイティブな発音のセックスに動揺しながら、勇気は「それは」と言い淀む。勘違いから始まった。知らない間に抱いていた。ご褒美が欲しいと言われて、キスをした。セックスをした。それは、勘違いしているからか? 彼女ではないとわかっていて、好きでもない男を男が抱けるのか?
「それは……」
「ふふ、ユウキ。ママン、私に、言ったこと、有るよ」
「……?」
エリスは微笑んで、誰かの口調を真似るようにして言った。
「いい? 恋っていうのは、勘違いなの。好きって気持ちが弾けちゃうのよ。でもね、その好きって気持ちが、ずうっと続くのは、とっても難しくて珍しいことなの。相手を思いやって、大切だと思って、好きなところも、嫌なところも、全部受け入れて一緒にいたい。そう思えることが、愛なのよ」
流暢な日本語に、勇気は目を丸くした。それに構わず、エリスは続ける。
「だから、ユウキ、最初、勘違いかも。でも、今は、違う。でしょ?」
「……う、ん……」
「なら、私、それでいい。ユウキ、謝らないで。私、ユウキに、嫌われてない、それでいい」
「嫌いになんて」
「嫌いじゃない、なら、好き、でしょ?」
「う、……うん……?」
なんだか上手く乗せられているような気がする。勇気は首を傾げながらも頷くと、エリスがまた笑った。
「私、ユウキ、好き。ユウキ、私、好き。あとは、それが、愛になるか、どうか、確かめるだけ」
だから、私、いいの。いつか、オヨメサンになれたら、幸せ。ダメでも、それは、仕方ないの。
エリスの言っていることは、わかるようなわからないような不思議な感じだったが、エリスがいいと言っているんだから、勇気にはそれ以上何ともしょうがない。それに、エリスの言う通り、勇気は彼のことが嫌いではなく、好きだった。
「……ところで……、さっき、めちゃくちゃ日本語、スラスラ話せてたけど……」
「ン?」
「……もしかして、……ホントはちゃんと話せる……?」
そういえば。エリスは大学を主席で卒業する天才だ。加えて日本人の母の影響で、日本に興味を持っていた。日本語を真面目に勉強してないのは少々不自然だ。
「ふふ、どうでしょう?」
エリスはまた、微笑んだ。
「でも、日本人、カタコト、好き、でしょ?」
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