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第32話 実家
「ただいま〜……」
小さく呟いて玄関を開けると、靴のたくさん並んだ玄関まで明るく暖かい。奥の方からテレビの音やら話し声やらが聞こえるが、勇気の声に反応は無いから、きっと気付いていないのだろう。勇気は靴を脱いで、ボストンバッグを玄関に置いたまま、お土産の入った紙袋だけを持って廊下を進んだ。
「ああ、おかえりなさい、勇気」
優しく穏やかな母が、いつものように微笑んで迎えてくれる。「ただいま」と静かに返事をして、「これ、お土産」と紙袋を渡すと、「あら嬉しいわ、みんなで食べましょうね」といつもの反応。
「おお、帰ったか、勇気!」
兄の勇一郎も、いつもと変わらずの大きな声で明るい。3つ年上で体育会系の兄が、勇気は少し苦手だ。嫌いとかそういうのではなくて、人種が違うという意味で。
「おかえり、勇気」
そして、定年を間近に控えた、父が静かに呟いた。何もかも、いつも通りだった。
実家を出てからも変わっていない自室に入って。タンスから部屋着を引っ張り出す。持ち主はいないのに、洗濯もしてくれているのかいい匂いがした。実家の空気と香りに包まれながら、勇気はベッドに寝転がる。子供の頃からずっと使っていたそれは、少し軋んだ音を立てた。
社会人になって初めての正月休みだ。最後の三ヶ月は怒涛だったな、色んな事で……。勇気はそんなことを考えながら、天井を見上げる。部屋の外で、家族が話している。勇気は子供の頃から一人で部屋にいることが多かったから、特段気にかけられてもいないようだ。
兄が苦手なのは、3つ離れているからでもある。勇気の人生の転機は、兄の転機でもあり、兄の方が重要だった。放り出されていた、とまでは思わない。ただ自分の高校受験の時には兄は大学受験。大学受験の時には就職活動と、兄に重点が移っていたのは事実だと思う。だからといって、恨んではいない。それでも、なんとなく心がモヤモヤとするから、できればあまり顔を合わせたくないと思っていただけだ。
それがどうしてなのか。社会人となった勇気には、実家を離れたからこそわかることも少しある。要するに、寂しかった。愛されていなかったとは思わない。それでも、手のかからない大人しい子であった勇気は、確かに寂しかったのだ。
それで中学時代には少し方向性がズレた。長くは続かなかったが。自分が何を求めて、何をしたいのかわからなかったから。
ぼんやり、天井を見つめる。リビングからは相変わらず、楽しげな兄の声が聞こえる。兄は何も悪くない。母も、もちろん、父だって。なのにどうして、彼らのことが苦手なんだろう。
ふいに、エリスのことを思い出した。
周りが自分によそよそしいのが、嫌われているからだと信じていた彼。本当は寂しいけれど、周りが怖くて自分を包み隠して、蝋人形みたいになっていたエリスの、長年にわたる思い込み、勘違い。
エリスのことを考えていて、勇気は、はたと気付いた。
なにも、勘違いして、思い込んでいるのはエリスだけではないのかもしれない。
リビングに向かうと、兄がテレビを見ながらビール片手に随分大きな独り言を言っていた。隣で父は黙ってテレビを見ている。昔から寡黙な人だったから、この光景はいつもと変わらない。
キッチンへ向かうと、母の姿があった。母は勇気に気付くと、「あら、勇気。おやつ?」と微笑みながら、キッチンシンクの中で食器を洗っている。
「……なんか、手伝うよ」
「あらあら。勇気は偉い子ね、帰ったばっかりなのに。勇一郎なんて昼間からお酒を飲んで大声出してばっかりよ」
「父さんは座ってばっかり?」
「そうそう。昔からそうね。それに、勇気はいつもお手伝いしてくれる優しい子だったわ」
母は笑って、「洗ってくれる?」とシンクの端に寄った。母が洗剤で汚れを落とした皿を受け取って、お湯ですすいでいく。子供の頃からよくしていたような気がする。専業主婦の母には、勇気の他に味方はいないように思っていた、のかもしれない。
いつも寂しげだと思っていた母は、今も微笑みを絶やさない。勇気が大学と就職の為に家を出ても、それは変わらなかった。
「……母さん、一つ聞いてもいいかな」
「なあに?」
「……どうして、父さんと結婚したの?」
声を小さくして尋ねる。どっちみち、うるさいテレビと兄の笑い声で、リビングには届かないだろうが。母は一瞬きょとんとした後で、笑った。
「あらやだ、会社で何かあったの? いい人でもできた?」
「違うよ、前から気になってただけ」
物心ついた時には一緒にいた二人が、いかにして出会い、どうして夫婦となって、今も暮らしているのか。勇気はそれを知る機会がなかったし、知ろうともしなかったのだ。
それが何故なのか。今の勇気には、一つの憶測がある。
「……寂しくなかった? 昔から父さん、家にいなかったじゃん」
「うーん、そうね。まあ、寂しくなかった、って言ったら嘘になるけど」
母は苦笑いをしながら、皿を洗っていく。それを流れるように受け取って、勇気が濯いでいく。
「でも、お父さんは誠実で一生懸命な人だから。不器用なのよ、あれもこれもぜーんぶやるって無理なの。だから、お父さんは会社で頑張るって決めたのね。私達にお金で苦労させないって、それを第一に考えたの。……まあ確かに、そばにいて欲しい時もあったけど……」
でもねえ。母は何かを思い出すように、天井を見上げる。
「お父さんはそうやって、私達のことを思って精一杯やってる。家に帰っても弱音も愚痴も何にも言わないで、……本当に不器用で真面目な人なの。きっと辛いことも、やりたいことも、思うこともあるでしょうにね。お父さんも歯を食いしばって生きてるんだと思ったら、……私もお父さんのこと、守ろうって思ったのよ」
「……守る?」
「そう。お父さんは、私達を守ってくれる。だからお父さんの事は私が守ってあげなきゃってね。人は支え合うものって言うでしょう? 何もかもがお互い様なのよ、私もお父さんを支えて守るって決めたの。……古い考え方かもしれないけどね。他にもやり方はあったかもしれないけど……ふふ、私達はそういう関係だったし、別にそれでいいと思ったのね」
だから、確かに不満とか、無かったとは言わないけど。でも私達は、うまくいってたと思ってるわ。
母の洗う皿が、最後の一枚になった。それを受け取って、勇気がすすいでいる間、母はじっと見つめていた。
「でも、それが貴方達の幸せとは、限らないものね」
勇一郎にも勇気にも、寂しい思いをさせたかもしれないわ。
勇気は、何も答えなかった。
正月休みは暇を持て余す。餅つきをするでもなく、おせちを作るでもない勇気の家は、正月休みはひたすらにゆっくりと過ごす時間だ。
兄はテレビをつけたままソファでぐうぐう寝始めて、父は兄に気をつかうでもなくその隣でテレビを見ている。バラエティ番組を見ているようだが、笑ったところを見たことがないから、楽しんでいるのかもわからない。
寡黙で何を考えているかわからない父。ただ、何を考えているかわからないのはお互い様かもしれない。勇気も内向的で、家族にも何を考えているかあまり言わなかったように思う。勇一郎と勇気は全然似てないわね、と母がよく言っていた。兄は思ったことを思ったままに言うタイプで、ストレス無いだろうなと子供の頃から思っていたものだ。
お風呂に入ってさっぱりしてらっしゃいな。母に促されて、風呂に入る。一人暮らしではシャワーで済ますことが多いから、湯船に浸かってゆっくりするのは久しぶりだ。ワンルームの狭いバスタブとは違って、のびのびと湯に浸かれるのは気持ちがいい。全身が温まって、心が、体がほぐれていくような気がする。ふう、と息を吐きだして、またぼんやりと天井を見上げながら湯気に満ちた白い世界を眺めていると、色んなことを考えてしまった。
もしかしたら。
もしかしたら、母さんは父さんと暮らして、幸せだったのかもしれない。
それは、勇気にとって全ての前提が覆されるようなことだ。
思えば。
自分が寂しい思いをしていたのかもしれない。母が、寂しい顔をしていたから。自分ではどうにもならないことを、子供心に悩んだのかもしれない。そして、無力な当時の勇気はこう思うしかなかったのだ。
父さんが、そばにいないせいだ。
それが責任転嫁であることは、勇気自身にもわかっていた。家に帰らない父が全て悪いことにしてしまえば、随分話は楽になるのだ。母に寂しい思いをさせているのは、自分のせいではないと思えるのだから。それでも、何処かでそうして嘘をついているとわかっていたのかもしれない。だからこそ、勇気は家族が苦手だったのかも。
そう考えると、色んなことが繋がってくる。悲しいぐらいに。
そもそも。勇気は本当に『彼女』のことが好きだったのだろうか。今は名前も覚えていない、金髪の彼女のことを。勇気は最後まで、彼女がどういう境遇で、どう考えているのか、どういう人間なのか知ろうとはしなかった。それは、そばにいたというのか? 彼女を守ろうとしたと言えるのか?
父と同じであってはいけないと思い込んで。それでも方法もわからなくて、違うと思いたかっただけではないのか。そうだということを自覚するのが怖くて、ずっとずっと、考えないようにしていただけではないのか。
現に、勇気はあの日、突然帰国するまでエリスのことを何も知ろうとはしなかったのだから。
「……あ〜……」
勇気は溜息を吐いて、目を閉じる。
俺は中学生の頃から、何にも変わってなかったんだな。
エリスや透夜に偉そうなことを言っておいて。何も頑張れてないし、自覚していないのは自分のほうだ。
「……俺、ほんとどうしようもねぇな……」
透夜に言われるまでもない。平凡な、どうしようもなく何の取り柄もない、ただの子供なのだ。全て父親のせいにして、現実から逃げていただけの。その実、自分のやりたいことなど見つからずに、人の役に立ちたいなんておこがましい理由で、なんとなく仕事を選んだだけの。
「……あ〜……」
一人で考えていると、憂鬱な気持ちは止まらない。しかし、この場にはエリスも、いつも陽気な要も、冷静な時もある透夜も、誰もいない。勇気は一人だ。
「俺、やっぱり……エルにふさわしくはないな……」
ぽつり、とこぼした言葉が、風呂場で反響して、何度も胸に届くようだった。
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