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第4話 貞操の危機

 猛吹雪で夜のせいか、窓から明かりが漏れている家が時々あるくらいで、人の姿はどこにもなく、寂しい城下町を走り抜ける。  丘へ続く曲がりくねった坂道を駆け上がり、城門の前に辿り着くと、甲冑を着込んだ門兵が黒の石門の前に槍を持って立っていた。ようやく神殿の女性以外に人の姿を見た。 「王様の御帰還! 門を開けよ!」  門兵が脇に避け、合図を送ると門が重々しく開く。その向こうに見えたのは雪に覆われて何があるのかも分からない広い庭。そこを王狼に乗ったままゆったりとした歩みで玄関の方に向かった。  階段の下に着くと、待っていた兵士らしき男が黒威から手綱を受け取る。すると王狼は伏せの格好を取り、降りやすくしてくれる。それでも高いのだが、黒威は容易くその背から飛び降りた。 「おい、早く来い」  戸惑っている俺に苛立ったのだろう、眉間に皺を寄せている。それなのに「飛び込んでこい」とばかりに両手を広げて待っている。  女子供のような扱いに気恥ずかしくなるが、覚悟を決めて黒威の胸に飛び込んだ。よろめきもせず、がっちりと受け止められ、思わず男として感心してしまう。お姫様だっこどころか肩に担ぎ上げるのも楽にできそうだ。 「早く来い、なんて妃になる方に言うもんじゃありませんよ!」  階段を駆け下りてきた白い服を着た男は、憤慨した様子で黒威に向かっていく。黒威は俺を離すと男を無視して王狼を撫でて何か言葉を掛けた。 「少しは紳士的な言葉遣いや振る舞いを身に付ける努力をですね――」  兵士に連れていかれる王狼を見送り、臣下らしき男を見向きもせず階段を上っていく。俺はどうすべきなのか男に視線を移すと、ばっちり目が合った。三十代くらいで長い銀髪を一つに結っている。目の色も銀色だ。 「貴方様が『麒麟』の……! わたくしは王の従者の水海(すいかい)と申します。スイと御呼びください」 「ああ、宜しくスイ。俺は黄太だ」  恭しくお辞儀をするスイに握手を求めると笑顔で握り返してくれたが、驚いたように俺の腰を押して階段を上らせる。 「手が氷のようです! ささ、黄太様暖かい室内にお早く!」  開放された扉の中に入って、目に飛び込んできたのはおとぎ話に出てくるような二階へ続く螺旋階段。室内も外観と同じ黒い石でできているようだった。  しかし、そこには俺が想像したような絢爛豪華な調度品は無く、土埃や雪を落とすための赤い絨毯が玄関に敷かれているだけだった。灯りの点った燭台は一切装飾が施されていないし、絵画や彫刻の類いもない。  城に入ってすぐ脇のロビーに暖炉があり、その前に簡素な丸テーブルと椅子が備えられていた。それ以外は特に目につくものはなかった。 「どうぞ暖炉で暖まって下さい」  着ていた雪の積もったローブを脱がされ、暖炉の前に誘導される。身体が冷えきっていたのだと、椅子に座り火に当たってようやく実感する。 「この吹雪の中いらしてくださいましたのに、お迎えに上がらず御無礼を致しましたこと、誠に申し訳ありませんでした。王の命とはいえ、あの無作法な朴念仁に任せたのは失敗でしたね! わたくしが付いていたら不愉快な思いをさせることもありませんでしたのに!」  従者が仕えている王に対してこんな口を利いていいものだろうかとこちらの方が不安になるが、黒威は耳に入っていないのか気にする素振りも見せずに、召使いらしき男性にローブとギターを預けて二階への階段を上っている。 「ここに風呂とか無いの?」 「有りますとも! 御所望かと思いまして、用意して御座いますので、宜しければ是非!」 「今から入ってもいいか? 暖まりたいし」  色んなことが有り過ぎて、すぐに横になりたい気分だが、風呂に入って疲れを取ってから寝たい。 「ええ! 申し付けて頂ければお世話係も共にご入浴」 「いやそれは遠慮する」  素早く拒否すると、「そうですか」と何故か残念そうに言って、「浴場まで御案内致します」と歩き出す。王様がうら若い乙女に身体を洗ってもらっているシーンは外国映画で観たことがあるが、裸を見られるのも嫌なのに他人に身体を洗われるなんてたまったもんじゃない。  スイの誘導で城内に設けられた浴場に着くと、脱衣所まで入ってこようとしたので追い出してから服を脱ぐ。脱衣所と浴場は仕切りがなく、目の前に見える大きな風呂にようやく王様らしさを感じた。  湯船の近くに大きなガラス瓶と鉄製の杓子があったので、湯を杓子で汲んで足に掛ける。冷え切っていたのだろう、じんじんと痛いほど熱く感じた。  軽く杓子で身体に湯を掛けた後、瓶一杯に湯を汲んで身体に掛け、恐らく石鹸と思われる乳白色の四角い固まりを身体に擦り付ける。と、想像よりも柔らかくスポンジのようで、擦るとすぐに泡立ち、花のような甘い香りが鼻孔をくすぐった。 「はあぁ……」  頭から足先までスポンジ石鹸――と名付けた便利な道具――で磨き洗い流して湯船に肩まで浸かると、思わず安堵の声が漏れた。こんなに伸び伸びと足を伸ばして風呂に入ったのは家族旅行で泊まった温泉宿の貸切風呂以来だ。  思ったより質素な城だったな、と思う。召使いの数も目についた限りだがスイを除くと二人しか見掛けなかった。調度品は寧ろ我が家の方が数があるのではと思うほど余計なものが一切ない。  もしかして、結構困窮してるのか? 雪に閉ざされた国だから作物はろくに育たないだろうし、家畜の飼育も難しそうだ。島だから魚介類が採れるのかもしれないが、それだけで生活が成り立つものだろうか。  黒威の格好も高級感があるかと言われたら、王様が着るほどじゃないよなと思う。先に会った朱雀の赤麗は、絹の一枚布に金糸で刺繍を施した、いかにも高そうな服を着ていたので、どうしても比べると見劣りする。それに赤麗の方が物腰が柔らかで所作にも品があったし、姿形も申し分無いくらいの超絶美形だった。あんな人が王だったら、自然と傅きたくなるものだ。  対して黒威は従者からあんな物言いをされても平気でいる。恐らく日常茶飯事なのだろう。とすればさして国内での権力も信頼度も高くはないのではないか。  実力の無い王だからこそ、戦争を回避する必要があったのだ。臣下からも市民からも協力を得られないからこそ。戦いに持ち込めば勝利はないのだから。  そうして平和を謳って『麒麟』を先に得た者を帝にすることになったのではないか。黒威は、是が非でも五国を統べる王に成りたい理由があったのだ。 「……貧乏くじ引いたな、こりゃ……」  深い溜め息と共に溢れた言葉は、一つの疑念を抱かせた。  ――黒威をこのまま、帝にしていいのか?  できることなら四人の王に会って適性を見極められたら一番良いのだろう。しかし、俺には選ぶ権利がない。まず黒威に歯向かえるわけもない。頼れる人間もいない。このまま、従うほかない。 「黄太様ー! こちらに身体を拭くものと御召し物置いておきますねー! 御召しになっていたお洋服はこちらで洗いますのでー!」 「ああ、有り難う」  とにかく今日は寝て、また明日考えよう。扉の閉まる音の後、ふうとまたひとつ小さな溜め息を吐いて湯船から上がる。  置いてあった清潔感のある布で身体を拭き、トランクスに近い下着を穿き、肌触りのいい大きめのえんじ色のガウンに袖を通す。割合装飾のあるものだったので、少しでも良いものをと気を遣ってくれたのだろうか。  何だか申し訳ない気持ちになりながら、扉を開けて外に出た。 「もう夜も遅いですし、御休みになられますよね。寝室に御案内致します」  スイについて廊下を進み、元のロビーまで戻ってくると、二階に行っていた黒威がこちらに向かって歩いてくる。 「黒威様、何処にいらっしゃるのです?」 「……風呂」  ただそれだけ、ぶっきらぼうに返答してすれ違った。またスイがその背に向かってぶつぶつと小言を言っている。 「さ、朴念仁は放っておいて行きましょう」  スイの背中を追い掛けて螺旋階段を上っていく。二人の関係性を見る度にこのまま流されるように黒威を帝にして大丈夫だろうかと不安感が募った。 「では、ごゆっくり」  スイが寝室の扉を閉めて出ていったその後、鍵を閉められないかと案じたが、まず内側からしか施錠できないタイプのドアだったので安堵する。そして四人はゆうに寝られそうな大きなベッドに思いっきり頭からダイブした。ふわふわの毛皮の毛布とたっぷり綿の詰まった寝具に喜びを隠せない。他に豪奢な調度品も設えも無くても構わない。ただふかふかのベッドが有りさえすれば幸せだ。毛皮の毛布が特に気持ち良くてごろごろと転がる。  仰向けに大の字になって黒一色の天井を見上げた。この黒い石は建築物によく使われる素材なのだろうか。窓から月の光が差し込んで、天井や床、壁を黒く輝かせている。月が出ているということは、どうやら吹雪は収まったらしい。  外は凍えるような寒さだったが不思議と城内は暖かい。寝室にも暖炉が備え付けられているので、そのお陰もあると思うが。  深呼吸をして目を閉じる。今日あった色んなことが思い起こされて、再び瞼を持ち上げた。  知らない場所に突然連れてこられて、知らない男と結婚させられるなんて。そんなことが自分の身に襲いかかるなんて、少しも思いもしなかった。数時間前の俺に話しても、絶対に信じないだろう。今でも、目が覚めたら自宅のベッドの上で「なんだ夢か」と安堵する明日がやってくるのではと思っている自分がいる。そんな明日を期待するだけ、無駄なのに。  ベッドに潜ろうと身体を起こした時だった。足音が扉の向こうから聞こえると思った瞬間、ドアが開け放たれて驚いて固まる。  殺し屋か何かかと思ったが、あながち間違いではなかった。睨み付けるだけで人を殺せそうな鋭い眼光を向ける男、黒威が立っていた。俺の着ているものと色違いの紺のガウンを着ている。 「……疲れて寝ているかと思ったが」 「いや、色々考えてたら寝られなくてさ」  「そうか」と至極当然といった風に何故かドアの鍵を掛け、寝室に入ってくる。 「は? なんで――」  言い掛けた言葉は、そこで途切れ、それ以上繋ぐことは出来なかった。  それは一瞬のことだった。黒威に強く肩を引き寄せられた。そしてそのまま口を黒威の唇に塞がれたのだ。  唇に感じる柔らかな感触。何が起こったのか分からなかった。が、黒威の舌が口を割って口内に入ってきて、更に俺のガウンの前を開いて胸を撫でられて、ようやく正気に戻る。  本能的に危機感を覚え、身体を押し返そうとして腕を振り上げた。が、しかし両手首をがっちりと掴まれてしまい、そのままベッドに押し倒されてしまう。 「離、せ――!」  黒威が覆い被さってきて、再び口を塞がれる。 「っ……ふ、ぁ……」  口の中を、上顎の裏を舌で撫でられると背筋がぞくぞくし、腹の下辺りに血が集まるような感覚がする。頭がぼうっとして、何も考えられない。  力を緩めた隙に黒威に両手を頭の上にまとめられて、片手で押さえ付けられて、空いた片手が俺の胸に触れる。 「……ぁ、んっ……ぅ、あ……」  胸の突起を指の腹で捏ねるように撫で回され、その度に甘い刺激が全身を伝った。身体がびくびくと震え、喘ぎ声が勝手に漏れ出す。  触れられたくない、やめてくれ。嫌で仕方ないのに、抵抗しようにも身体に力が入らない。自分の意思とは関係なく身体が反応し、血が沸騰しているかのように熱い。黒威の舌に、指先に、翻弄されていく自分が、恐ろしい。怖い。こわい。  唐突に、黒威の動きが止まった。唇が離れ拘束されていた腕は解放される。 「……ちっ」  舌打ちと不機嫌そうにを眉根を寄せて、黒威は身体を離しベッドから降りた。  いつの間にか涙が頬を伝い落ちている。ああ、泣いたのか、俺は。 「何で、こんなことっ……!」  涙を拭い、呼吸を整える。気が動転しているのか身体が小刻みに震えている。何て無様な。 「そんなに嫌か、俺が」 「そういう問題じゃねえ……!」  黒威は合点がいかないのか、俺を見下ろしたまま無表情に濃紺の瞳を向けている。黒威の考えている事が分からない。  始めは自分の不甲斐なさの方に苛立ちを覚えていたが、理解出来ない状況とそれを作り出した張本人に怒りの矛先が向いた。 「こんなこと……好きでもねえ奴と、しねえんだよ馬鹿野郎ッ……!」  俺は近くにあった枕を引っ掴んで、黒威の顔面めがけて投げた。勿論黒威は手で防いでダメージはゼロだったが、馬鹿野郎、と言ってしまった。殺されるのではと一瞬で後悔した。 「……分かった。好きにしろ」  予想外にもそのまま黒威はドアを解錠し部屋を出て行った。しかし、閉める時に激しく音を立てられたので、びくっと肩を震わせる。当然だが、かなり怒らせたようだ。  靴音が聞こえなくなってから、深く息を吐いてようやく嵐が過ぎ去ったのだと実感した。  何がどうしてこういうことになったのか、全く理解出来ない。『麒麟』なんて、妃なんて、形式上のものではないのか? 俺が女なら世継ぎのために子供を成さないといけないかもしれないが、俺は男だ。子供は出来ない。この行為が必要な行為とは思えない。  それに、今日会ったばかりのほとんど他人に、恋愛関係でもないのにこんなことするやつがあるか? 世の中にはワンナイトラブとかいうのもあるらしいが、それは同意の上のことだろう。俺は妃になることは受け入れたが、ベッドを共にすることは全く受け入れていない。  恋愛なんて縁遠いものだったから、耐性がないのだ。何せ今まで人と付き合ったことも無ければ、勿論ファーストキスもまだだったわけで、更に言うなら初恋もまだだ。それを一気に吹っ飛ばして、キスどころか舌を入れられて胸を弄られたのだ。 「ああぁーっ! 何が好きにしろだ! ばぁか! ばぁーかッ!」  ベッドに向かって何発か拳で殴りつけて、ガウンを着直した。ついさっきのことを思い出してしまい、羞恥心に襲われる。このままこの部屋に居たら可笑しくなりそうだ。 「あれ、御妃様どちらに?」  ドアを開け放ち、部屋を出た瞬間だった。  声に驚いてその方を見るとスイが立っていて、手には俺の洋服がくしゃくしゃになった状態で抱えられている。 「……その様子ですと、無事なのですね」 「え……?」  スイは苦笑して俺の洋服を差し出した。訳が分からないままそれを受け取り、スイの顔を見詰める。 「実は僕は、南の王であらせられる赤麗様の密偵なのです」  『朱雀』の赤麗の密偵が、ライバルであるはずの黒威の従者をしているというのか? もしそれが本当なら、黒威に対して不遜な態度を取っていた理由も分からなくはないが、逆に言うと黒威はそこまで近くに敵が潜んでいても気が付かない愚鈍ということになる。王としての器量も知れたものだ。 「赤麗様から機を見て御救いしろと命じられていました。黒威は今自室に戻っています。逃げ出すなら今が最後の機会かもしれません」  ――逃げ出す。  思ってもみなかった言葉に戸惑う。黒威には腕力では敵わないし、この見知らぬ世界で一人ではどうにもならないと思っていたから。  赤麗は唯一顔の分かる人間だ。美しい顔で、優しい雰囲気の男だった。少なくとも黒威のように無理矢理組み敷いたりはしないだろう。そんなことがあっても、あの優男に力では負ける気がしないから、いざとなればぶん殴って逃げ出せばいい。  『分かった。好きにしろ』。そう言って部屋を出て行く時の黒威の顔を思い出す。少し寂しげに濃紺の瞳が揺れ動いていた、気がする。 「……分かった。赤麗のところに案内してくれ」 「はい、ではそれに着替えてご準備を。僕は脱出経路の確保を致します」  一瞬スイが笑った気がしたが、気のせいだろうか。俺は寝室に戻り、ガウンを脱いで自分の服に着替えた。  と、窓が小石が当たるような音を立てたので、窓を開けて外を見る。いつの間に用意したのか、鉄製の梯子が掛かっていて下にはスイが手を振りながら立っていた。  二階とは言え天井の高い建物だ。三、四階から降りるくらいの感覚がある。怖くないと言えば嘘だ。覚悟を決めて下を見ないように一段ずつ降りていく。寒さで手がかじかみ、がちがちの足はいつ踏み外すか分からなかった。 「急ぎましょう。こちらです」  何とか梯子を降りきり、走り出すスイの後ろに慌ててついていく。城門の方に向かうと、入る時にいた門兵が門の脇に横たわっていて驚いて足を止めた。  どうやら死んではいないようだ。目立った外傷もない。ただ、これは恐らくスイがやったのだと思うと、空恐ろしい。 「何してるんです! 急いで!」  月明かりに照らされる漆黒の城を仰ぎ見て、銀髪の男に視線を戻す。ここまで来たら、もう引き返せない。俺は城門から続く坂道を下り始めた。  雪に足を取られながら長い坂道を下り城下町をようやく抜け、針葉樹の林の中に入ろうとしているところで、さすがに体力の限界が訪れ、足を止め木に寄りかかった。  雪に適した靴ではないから、氷のように冷たくなっていて、足先の感覚が失われている。穿いているジーンズはぐしょぐしょに濡れて重くなっていて、更に充分な防寒具も無いので寒さにかなりの体力が奪われていた。  しかしスイはここの暮らしに慣れているのか、全く疲れも見せず草原の中を歩くように楽々と進んでいる。 「あと、どれくらい行くんだ……?」 「南の国に至るには、海路がとても厳しいため、西の国を経由しなければなりません。西の国の国境までは、この足なら……半日くらいですかね」  その言葉に呆然とする。半日もこの軽装でこの雪の中を歩くなど、どう考えても自殺行為だ。 「何か他の移動手段は無えのかよ! この格好じゃ、二人とも死んじまう!」  俺がここに着いた時のように、吹雪に見舞われることも有り得る。スイも城にいた時と同じ白い服を着ているだけで、靴は革のブーツを履いているが充分だとは言えない。  と、スイの足元を見て違和感を覚えた。ここまで雪深い道無き道を共に歩いて来たはずなのに、スイの靴も服も、少しも濡れていなかった。 「仕方ない、おぶってあげますよ」  スイが呆れ顔で俺の方に歩み寄り、背中を向けて屈んだ。この年でおんぶとは、恥ずかしいを通り越して屈辱的ですらあるが、背に腹はかえられない。スイの肩に手を伸ばす。 「っ、冷てえ……! お前、めちゃくちゃ冷え切ってるぞッ!」  驚くほどの冷たさに飛び退いた。布越しに多少の温もりが感じられてもいいものだが、温もりどころか氷に触れたように無機質な感触だった。 「……はあ、もういっかぁ。ここまで来たし」  その声は、目の前の男から聞こえたものではなかった。林の奥から、雪を踏みしめる音が、段々とこちらに近付いてくる。  それは月の光に照らされて、白い毛が煌めいていた。神々しささえ感じ、恐ろしさよりも美しさに、言葉を失った。 「さあ、お間抜けさん、行こっか。連れてってあげるよ」  虎だった。人の何倍も大きな、王狼よりも一回り以上大きい、白い虎。それが人語を話し、俺に語りかけている。 「あぁ面倒! 早くしろよッ!」  と、突然雄叫びを上げて暴れ出し、反射的に防御姿勢を取ったが、その時白虎が振り上げた前脚がスイに命中した。軽々と身体は吹き飛ばされ、木に叩きつけられる。その身体はぐにゃりと折れ曲がり、そのまま動かなかった。  白虎は俺に水晶のような透き通った、しかし冷たい瞳を向け、一歩一歩近づいて来る。あまりの出来事に逃げ出すこともできない。 「ぐ、あ……!」  動けない俺を白虎は容赦なく前脚で地面に押さえつけた。息が出来ない。意識が、段々と遠のいていく。 「お前のような醜い奴が……兄様の妃になるなんて許せない……!」  意識を失う直前、苦々しげな声が聞こえた。 「なんで……僕じゃないんだ……」  その声は憎しみと悔しさと、哀しみを帯びていた。

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