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「ゼロの距離感」モグ
「わわわわわ?!」
アキラは驚いて腰を抜かし、後ずさりをするも壁に突き当たり身動きがとれない状態にいた。
午前中の授業が終わり、生徒たちが購買や食堂へと向かう中、アキラはいつも通り別館へと向かっていたのだ。
そこにはアキラの言わば住処となっている旧図書館がある。数年前に新館が建てられたのを機に、別館は事実上閉鎖となった。今は倉庫のような役目を担っている。潰して運動場にしたり、新しい建物を建てれば良いという意見もあったようだが、重要文化財に指定されているとか何とかで、取り壊しはできないらしい。
詳しいことは分からない。アキラは、難しいことには興味なかったし、頭をひねってまで理解するつもりもなかった。
そんなことより、だ。
アキラは、クラスで目立つ存在であるわけでもなければ、かといって端っこに座って誰にも話しかけられないような、いわゆる「陰キャ」と言うわけでもなかった。近からず遠からずな距離を保つ友達だっている。そう、アキラはごく普通の男子学生なわけだ。
学生らしく、学業に励み、それ以上に部活動に力を入れ、毎日学生生活を楽しんできた。特に山あり谷ありな日常ではなく、波に乗るようにのんびりと過ごしているほうだと、アキラ自身思っていた。
「…ハルト君とナツキ君が、ちゅ、ちゅ、チューしてる?!」
と、今さっき目撃してしまったハプニングのせいで腰を壁に打ち付け、驚きすぎて口がふさがらない状態にあった。安定した日常に雷が落ちたような瞬間である。
ちらりと、壁から顔を出して別館の目の前にある大木へと目を向けたアキラの瞳に映ったのは、寄り添い重なる二人の男子学生の姿だった。
まさか…
自分の目が信じられないわけではないが、混乱するには十分なことだった。ただ、二度も自分の目で見てしまえば、見間違えと言えなくなってしまう。
「ねえ、ハルト…それ以上はダメだってば、皆に見られちゃう」
「こっちまで来る奴なんていねーよ」
耳を澄ませば、こんな会話まで聞こえてしまい、二人の体は先ほどより絡まり距離感がゼロとなってきたようだ。
「…ぁあんっ、ダメだってば」
火照った頬を両手で隠し、アキラは自分の教室まで走って戻った。途中で足がもつれ頭をぶつけたり、ダッシュするアキラを不思議に思った先生に引き留められたりしたが、とにかく自分の席まで戻りたかった。
「アキラ君、大丈夫?」
「う、うんっ、走ったら疲れただけだから放っといて」
そう言うとぱたりと机に突っ伏した。心配してくれた同級生がどの子だったかなんて、今は本当にどうでも良いことだとアキラは思った。
ハルトとナツキは、アキラと同じクラスの同級生である。幼稚園から友達だという二人は、家も近いらしく登下校はもちろんのこと、休み時間も昼休みも、授業でペアを組まなければいけないときも、とにかく四六時中ずっと一緒にいる。サッカー部のホープ、背が高く成績も上位なハルトと、成績は可もなく不可もなし、華奢で色白、見た目だけで言えば女の子っぽく可愛らしいナツキ。
アキラと違い、クラスで目立つ人気者の二人である。
「…仲が良いのは知ってたけど…」
一年生であるアキラが二人を知ってから一年未満だが、近すぎる距離感を不思議に思ったことはなかった。恋愛方面の経験がゼロに近いアキラにとって、男同士でどうのこうのなんて想像もしたことがなかったからだ。
そんなアキラでも、先ほど見た行為から二人の関係が友達以上であることは理解できた。これは、俗に言う「恋人」に違いない。男同士でも恋人になれるんだ、とアキラは漠然と思った。
◇◇◇◇◇◇◇
「起立、礼、着席」
「教壇にプリント置いていくから忘れずに持って帰れよー」
「「はーい!」」
ぐるぐると自分の世界に入り込んでいると、いつの間にか午後の授業も終わり、ホームルームまで終わっていたようだ。バタバタとクラスメイト達が立ち上がり、それぞれ向かうべき場所へと向かっていく。
アキラも、部活動に遅れないように教室を出なければいけない。運動部よりは厳しくないらしいが、美術部だって遅れすぎて到着したら悪目立ちしてしまう。今のところ上下関係だって良好だ。これと言って目を付けられた経験もないし、かと言ってとびっきり仲良くなった先輩や同級生もいない。
「えっと今日は、中庭で模写だっけ…」
いつもの美術室ではなかったはず、とアキラはカバンに教科書をしまって教室を出た。
いつも通り美術室に向かっていれば、これから起きる驚愕の出来事を目撃することはなかったのだが、運命とは不思議なもので、小さな変化が大きな衝撃を招くものである。
「…ひゃぁっ…ぁぁっっ、んんっ、あぁぁ!」
籠もった声が廊下の向こうから聞こえてくる。
アキラは近道をしようと、教室はなく、教材室や準備室が並んでいる校舎の端を通っていた。
学生たちが部活動へ向かったり、帰宅したりした今、ここに来る用がある人間はいないはず。アキラだって、中庭に向かう必要がなければ薄暗く誰もいない廊下を歩くつもりなどなかった。
「はっ、はっ、んんっ!もっとぉ」
「しー誰かに聞かれたら困るんだろ、ナツ?」
「あぁぁんっ、だってぇ」
ひぃぃっと意味のわからない音がアキラの口から漏れた。
よくある学校の怪談とは100%わけが違った。これは、あれだ、聞き間違いに違いない。
回れ右をして、遠回りをして目的地に向かえば良かったのだろう。だが、冷静でなければ正確な判断をすることは至難の業だ。
アキラの足は、近くから聞こえてくる嬌声に吸い込まれるように惹きつけられていった。
「んぁっ!だめ、あっっ、激しいっ」
科学準備室の中から声が聞こえてくる。それに合わせてギシギシと軋る音まで聞こえてきて、たまにパンパンと乾いた音まで響いていた。
何が起きているかなんて、経験値がゼロに近いアキラにだって明白だった。
誰かと誰かが閉ざされた部屋の中でセックスをしているのだ。
覗き見をする趣味はない。
ないが、興味心が勝りアキラはカーテンの隙間から中を伺ってみた。
「ハルト、くん…?」
誰かに覆いかぶさり、机に両手をついて腰を振っているのは同じクラスのハルトのようだ。数時間前に彼が男子生徒にキスをするところを目撃したばかりである。
「ってことは下にいるのは…ってうわっ!」
アキラの回答は大正解だったようだ。
もう少し中を見ようと窓枠に体重をかけたところで、ガタッと大きな音を鳴らしてしまった。それに合わせて、振り向いたハルトの体の下から見えた顔はナツキのものだった。
「ねえ、誰かいる…?どうしよ、ハル」
「心配すんな、俺が見てくる」
逃げろ、とアキラの頭に警告メッセージが流れる。
——ピンチ、ピンチ、至急脱出せよ
ゲームの如く、目の前に真っ赤なランプが点滅しそうな勢いで、アキラは焦っていた。
しかし、アキラの体は動かぬままだ。
足枷が付いたように微動だにできず、唇もおかしな形に開きっぱなしだ。硬直したままの背筋が、ギシギシと音を立てそうで恐ろしかった。
「おい…」
「ひぃぃぃぃ!」
ガラガラと音を立てて扉が開き、薄っすらと汗ばんだハルトが現れた。汗に張り付く前髪、心ばかり赤らんだ頬、ハダケたシャツに目のやり場がないほどだ。
色っぽいな、とどこか冷静さを保ちながらアキラは感じた。ただ、今そのような感想を述べている場合でもなく、どちらかと言えば怒られる前に逃げ出す必要があるのは明らかだ。
「ごごごごごめんなさいいいい!」
ドモリながらアキラは方向転換し逃走を図った。走るのは苦手だが、火事場の馬鹿力が発揮されるなら今しかない。ピンチ、緊急事態、SOS、エマージェンシー、崖っぷち。頑張れ、アキラ。
「うわぁぁぁぁ!」
「お前っ、逃げんなよ」
「放せぇ!」
残念ながら、火事場の馬鹿力は今回は使えなかったようである。距離で言えば、あの準備室から3メートルほど離れたところで襟首を後ろからハルトに捕まえられた。
狼に駆られた兎のように、しょぼんと項垂れたアキラはこれからの自分の処分を妄想していた。
卒業するまでパシリ、裸で校内を一周、金を渡す、食堂で日替わりスペシャルランチスペシャルをおごる、土下座、ボコボコにされる、代わりに宿題をやらされる…
人間やれば、一秒間に色々と思いつくらしい。
「おい、アキラ、昼休みも俺らのこと覗いてたよな。そういう趣味か?」
「しゅ、趣味?!ち、違うよ、たまたま。本当に二回ともたまたま通りかかって」
アキラは事実だけを答えた。嘘は一つも付いていない。気になることはあるが、嘘は付いていない。
「はっ、他のやつに絶対言うなよ?バレたら困るんだ」
「なんで?な、なんでバレたら駄目なの?」
「ナツを傷つけたくないからだ」
「わ、わかった…!わかった、けど…」
「なんだよ?」
聞いても良いのだろうか。「バレたら困る」ことは、二人がキスや性行為に及んでいるということだろうか、それとも…
「二人は、その…付き合ってるの?」
「はぁ?んなわけねーだろ」
だって、そういうことをするってことは付き合ってるってことじゃないの?と、早口で呟いたが、それにハルトが反応することはなかった。
「付き合いたいけどな…」
パニック状態なアキラが、ハルトが呟いた本心を聞くこともなかった。
「おい、アキラ。絶対に他のやつに言うなよ。わかったら、さっさとどっかいけ」
「は、はい!」
上履きをパタパタと鳴らしてアキラは廊下を走った。
息が切れて限界を感じたときには、中庭までたどり着いていた。どうやってここに着いたかは覚えていないが、無事時間内に部活動に間に合ったらしい。
「アキラ君が最後だよ、早く座って描きだしてね」
親切な先輩の声に頷きながら、アキラは木陰に腰をおろした。
色鉛筆を手に取り空を見上げるものの、頭の中は他のことでいっぱいだ。
あんなに仲良しで、あんなことまでしている二人なのに…それなのに付き合っていないなんて、アキラには意味がわからなかった。
自分の経験値が低いからだろうか。他の人も友達とキスをしたり、性行為に及んだりしているのだろうか。いつか自分にもこのことをしっかりと理解できる日が来るのかもしれない。
ゼロに近い距離で誰かと触れ合うなんて、心がいくつあっても足りない。
でも、そうしたいと思えるほど大切な人がいるハルトとナツキを羨ましいとも思えた。
「真っ青だね、空。きもちー!」
隣に座っていた同学年の生徒が楽しそうに笑う。
そう、それは今のアキラのようだった。雲ひとつない、濁りなく透き通った空のよう。アキラはまだ、純粋な色を塗っただけの真っ白なキャンバスのようだ。
あとどのくらいすればその日が来るのだろう。卒業するまでには「そういう相手」ができているのかな、と心を躍らせてみる。
アキラの膝に置かれたキャンバスがだんだんと青に染まった。衝撃的な一日に穏やかな光が差し込んできたような気がした。
「みんなーあと5分で終わりだからね」
「「はーい!」」
翌日、男子トイレで致している二人に遭遇してしまい、転んで保健室行きとなったアキラであったが、それは別の話だ。
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