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第1話

 姫野自動車にその青年がやってきたのは、十一月の中頃だった。 「オイル交換をお願いします」  SD損保の松井に紹介されたことと、作業依頼だけを告げると、待合室のソファに潜り込むように座り、ずっとスマートフォンをいじっている。  この辺りでは見かけない、垢抜けた格好だ。細身のパンツに膝丈のチェスターコートをさらっと着こなしている。  顔色はあまり良くない。不機嫌とまではいかないが、どこか心ここにあらずといった雰囲気で、目の上で切りそろえられた前髪もなんだか鬱陶しい。 『東京から飛ばされてきたのかな』  姫野自動車の技術部長である姫野哲也は勝手にあたりをつけた。  SD損保は全国に支店を置く日本でも有数の保険会社だ。ここ船泊市にも小さいながら支店がある。姫野自動車は社用車の納入、メンテナンスを請け負っている。もちろん保険関連の仕事のやり取りもある。関係が深い分、それなりに内情も知っている。  SD損保の中では「船泊は行き止まり」なる言葉があるらしい。  ときおり、本社勤め社員が島流しのように転勤してくるのだ。青年の暗い表情を見ると、なんとなくいきさつを想像してしまう。 「終わりましたよ」  哲也が伝票を持っていくと、青年は「瀬堂司」と、かっちりした文字でサインをした。  支払いを済ませた司は足早に店を出ようとする。 「タイヤ交換は早めの方がいいですよ。十二月に入るとどこも混みますから」  哲也はあくまでも親切で言ったつもりだった。だが、司は気分を害したようだった。 「僕はすぐ東京に帰りますから、結構です」 「いや、すぐって言ったって……明日帰るんですか?」 「僕は、ここに、馴染みたく、ないんです」  まるで哲也が何もわからないでくの坊で、それにしっかりと説明してやるかのように、一言一句はっきりと区切って念押しした司は、哲也の返事も聞かず去っていった。 「あーやな感じ」  ぶつぶつ文句を言いながら事務室に戻ると、ちょうど社長の姫野太一が外回りから帰ってきたところだった。 「あ、兄ちゃんお帰り」 「会社で兄ちゃんはやめろって言っただろ……なんだ、なんかあったのか」 「ああ、うん……」  哲也は先ほどの顛末を太一に聞かせた。 「そりゃあ、なんだかな。……にしてもタイヤ交換しないと危ないぞ」 「まぁ、オールシーズンタイヤではあったけど……」 「本降りになったら間に合わないぞ。松井さんに電話してみろよ」  松井は現地採用の古株だ。司が松井の部下ならば、上司の言うことを無碍にはしないだろう。 「え、新しい支店長?本当ですか?どう見たって三十前……ええー、二十八……ですか、はぁ」  受話器を握りしめながら、哲也は太一と顔を見合わせた。  電話を切ったあと、姫野兄弟は二人してため息をついた。 「二十八で支店長って、……七つも歳下だよ」 「俺なんか十五も下だぞ」 「兄ちゃんは社長だからいいじゃないか」 「だから会社で兄ちゃんはやめろって。お前だって一応技術部長だぞ」 「そんなこと言ったら、義姉さんは専務だろ」 「もういい……情けなくなるからやめよう」  瀬堂司は松井の部下ではなく上司だった。  松井曰く、「仕事はできる人」ではあるそうだ。今でこそ「行き止まり」に来ているが、東京本社では若手のトップだったという話だ。  太一は随分、好奇心を刺激されたらしい。「若手のトップが何やらかしたのかな」「松井さんも大変だ」「こりゃ持て余すぞ」と哲也の相槌すら待たず、一人べらべらと喋り続けたが、哲也はタイヤ交換の件が進まなかったことだけがむやみと気がかりだった。

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