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第2話

 灰色の空から、綿のような雪がふわりと哲也の鼻先に舞い降りた。 「降ってきたぞ」  工場の中にいる二人の部下が「うへぇ」とうめき声をあげた。ただでさえタイヤ交換依頼でてんてこ舞いなのに、この雪でますます仕事は増えるだろう。  まだ十二月、空気が痛いほど寒いというわけではない。雪の粒は大きくふわふわしていて、地面に落ちるとすぐに溶けてしまう。  しかし、こういう雪はこれはこれで厄介なのだ。  天気予報は二日連続雪、特に今夜は荒れるようだ。姫野自動車全社員九名は総出で明日の準備と打ち合わせを終え、八時には全員帰路についた。  帰る前に哲也は太一と相談して、店にかかってきた電話が哲也の携帯電話に転送されるように設定した。哲也の家は姫野自動車の敷地内にある。早朝から対応できるようにするためだったが、それとは別に嫌な予感もしていたからだ。  遅い夕飯をかっこみ、風呂にたっぷり入って、さて寝ようかというときになって携帯電話の呼び出し音が鳴った。 「はい、姫野自動車です……もしもし?」  呼びかけに少し間があって、小さな声がぽつりと聞こえてきた。 「……SD損保の瀬堂です」  予感的中だ。 「どうかしましたか?」 「……駐車場から、出られなくなって……この辺じゃあんたのところしか車の店は知らないんだ。頼む!来てくれ!金なら払う!」  最後はほとんど叫び声だった。  がらんとした駐車場の真ん中にぽつんと白いセダンが止まっていた。哲也の姿を認めて、司が車からぬるっと降りてくる。  『なんで僕がこんな目にあわなければならないんだ!』という不満が顔からあふれ出ている。  ふう、と一息ついてから、哲也は司に話しかけた。 「瀬堂さん、姫野自動車のものです。駐車場から出られなくなったということですが」 「ああ……タイヤが空転して坂道を上がれないんだ……」  半地下の駐車場は一階部分の出口に上がるまでに急な坂道がある。その上、出口には屋根がかかっていない。半地下で風通しがよいため、坂道に流れ込んだ水っぽい雪が海からくる北風に吹かれて路面はかちかちのつるつるだ。 「出入り口の坂道は凍結してます。オールシーズンタイヤって言っても凍結路には弱いんですよ」  哲也の乗ってきたピックアップトラックは冬タイヤにチェーンをかけているが、それでもひやひやものだ。 「……冬タイヤに変えておけばよかったって言うんだろ」  忘れているかと思ったら、哲也の顔も言ったことも、司はしっかりおぼえていた。重たそうな前髪の下から恨みがましい目つきでにらまれて、哲也はうんざりした。 「そんなこと言ってる場合じゃないですよ」  鋭い光が駆け抜けて、空がドーンと爆発した。 「うわ、な、なんだ!」 「こりゃ、近いな。雷ですよ。雪起こしってやつ」 「雪起こし?」 「タイヤ、変えときますから、外見てきたらどうです?」  哲也がジャッキを仕掛けている間、司は駐車場の壁と天井の隙間から外を覗いた。  雷の合図をきっかけに大きなぼた雪が世界を埋め尽くすような勢いで降ってきた。向かいの道路の街灯の光ももうぼんやりとしか見えない。完全に視界がなくなるのも時間の問題だ。  雪と共に冷たい風も降りてきた。薄手のコート一枚の司は両腕で自身を抱き込んでふるっと震えた。 「瀬堂さん、家まで何分くらいですか?」 「二十分くらい」 「微妙なところですけど……、どこか泊まるところ探した方がいいと思いますよ。もうここに泊まっちゃうとか」  司はかぶりをふった。 「それは嫌だ。入室の記録が残るし、誰かに見つかる」 「そんなことが嫌なんですか。こんな遅くまで残業してたんだから、もう一緒でしょう」  部下の言うことを無視して失敗してしまったところを当の部下に見つかるのは確かに格好が悪いだろうが、もう格好だの何だの言っていられる状況じゃない。 「こんな夜にぐずぐずしてたら生死に関わります。……誰も笑いませんよ」 「うるさいな……あんたには関係ないことだ」  再び空が割れたかのような雷鳴がとどろき、駐車場の中にまでどっと雪が吹き込み始めた。 「じゃあ、どっか泊まるところ探した方がいいですよ。この降りで車運転する自信ありますか?」  仏頂面の上に仏頂面を重ねて、司はスマートフォンを取り出し、検索を始めた。哲也は知らん顔で作業を進めた。 「くそー!どこもいっぱいだ!」  車止めに座ってスマートフォンをいじり回していた司が叫んだ。 「だいたいなんでこんなに宿泊施設がないんだ!マンガ喫茶も、二十四時間営業のファミレスもない!なんて田舎だ!」 「すいませんね、東京じゃないんで。はずしたタイヤ入れるんで、トランクあけてもらえますか」  司はスマートフォンから顔を上げず、トランクのキーボタンを押した。 「なんか入ってますけど……」  司はびょんと飛び上がってあわてて、トランクと哲也の間に割ってはいった。 「こ、こ、これはなんでもないんだ」 「なんでもないって、こんなたくさん……」  司の車のトランクには、酒の空き缶が数えきれないほど詰まっていた。アルコール度数はまぁまぁ高い。 「あんた、まさか、飲酒運転……」 「それはない!絶対に!……社宅が広すぎて……、一本空けてから、家にはいるんだ。あんな広いところで一人暮らしなんて、酒でも飲まなけりゃやってられないよ……」  支店長クラスの社宅なら家族用だろう。本来は四、五人で住むところに一人ではたしかに広すぎる。 「車に缶が溜まるだろ。捨てるところがわからない。会社や近所では捨てられない。ああ、あいつ酒に逃げたなって思われる。家には置きたくない。家の中にものを増やしたくないんだ。僕は……東京に帰るんだから……」  司の侘び暮らしを想像して可哀想にもなったが、いつまでも愚痴を聞いていられない。 「タイヤは後部座席に入れときますよ。……しょうがないなあ、うちに来ますか?」 「いや、いい」 「俺だって早く帰りたいんですよ!行きましょう!」  普段ならばここまで世話をやくつもりもない。しかし今日は特別だ。こんな強情な男、放っておいたら本当に死んでしまいかねない。

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