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1年B組19番 本田リク
「うん。大丈夫。元気にやってる。うん。成績も問題ない。そろそろ寝なくちゃ。うん。
ありがとう。母さんもね。また連絡します。はい。」
スマートホンを耳から外し、画面を見る。表示された通話時間の表示はまだカウントを止めない。02:36、02:37、02:38。親指で赤いボタンを押すと、ピ、という乾いた音とともに通話が切れた。暗くなった画面に反射して自分の顔が映る。皆に愛される他所行きのオレではなく、電源の切れた無表情なオレの顔だ。
2分半は親子の会話時間としては短すぎただろうか。週に一度、母親への電話連絡を義務のようにこなしている。余計な心配をさせたくない気持ちと、干渉して欲しくない気持ちが同じくらいある。血のつながりのある実の母親だが、オレと母親の間にはドライな距離がある。母親だけじゃない。父、母、姉、家族の中のその誰にも深い絆を感じたことがない。オレには自分が家族に所属しているという意識がほとんどない。
それはきっと自分の幼いころの環境によるものだろうと思う。
オレは、自分が同性しか愛せないという事に、比較的早い段階で気が付いた。それが少数派であるということも、自分の生きている社会ではあまり歓迎されていないということも、それゆえ隠して生きていかなければならないということも。
本当の自分を誰にも知られてはいけない。オレは幼くしてそのことを理解した。大きな秘密を抱えながら、子どもにとって最も安心できるはずの家庭の中で、オレはどこかよそよそしく振舞い続けた。甘えることもなく、駄々をこねて両親を困らせることもない。物分かりの良いお利口な子ども。いつしかオレは本当の自分が分からなくなるくらい「良い子」を演じるのが上手になっていた。
小さい頃、母の実家に遊びに行った時、祖母や祖父、叔父、叔母、いとこ、たくさんの親戚を眺めながら、オレは恐ろしい一つの事実に気が付いてしまった。男しか愛せない自分には家族を作ることができない。結婚して子を設け、その子どもが大きくなって結婚し、また子を設ける、という当たり前の仕組みに自分は含まれていない。人類が有史以前から脈々と繰り返してきた遺伝子のリレーに自分は参加していない。枝葉のように子孫が繁栄し、広がり別れ、分岐する家系図の線が、自分の名前のところで途絶えるのがはっきりと見えた。進化の系統樹で淘汰され絶滅した古代の動物みたいに。
一人で生きていかなきゃ。一人で生きていくために強くならなきゃ。
その頃からオレは、一人で生きていけるように準備を始めた。大人になったとき、オレの周りにはきっと誰もいない。人には言えない弱みを持っているオレは、誰よりも優れていなくてはいけない。じゃないと生きていけない。淘汰されてしまう。
家族とさえ距離のあったオレにも、一人だけ心を許した人がいた。小高君だ。受験のため有名進学塾に通っていたオレは、その時すでに塾内でトップの成績を誇っていた。クラスは学力別に分かれており、毎月行われる全国模試の成績によって、その都度メンバーが入れ替わった。テストの点数は教室内の席順にまで影響し、成績トップのオレの席はいつも特Aクラスの一番前にあった。小高君も同じ特Aクラスで、席も大体いつも近くだった。
オレたちはどこか似ていた。表面上は明るくて、元気な普通の子どもなのに、どちらも全然子どもっぽくなかった。オレたちはすぐに仲良くなった。良い子を演じてきた者同士、波長が合ったんだと思う。
冬季講習の終盤。その日は午前中にテストがあるだけで、午後に授業はなかった。塾が終わるとオレたちはいつも駅まで一緒に歩く。そして改札の中にある小さな本屋の前で別れる。そこからオレたちは別々のホームに向かう。オレが2番ホームで小高君が5番ホーム。お互いどこの駅の、何ていう町に住んでるのか知らない。
その日も、僕たち二人はジャケットのポケットに手を突っ込んで肘と肘を寄せ合いながら、駅までの道を帰っていた。下らない冗談に大笑いしながらお互いを小突き合ったりした。僕たちはユーモアのセンスも似ていた。
角度の厳しい冬の日射しが、色素の薄い小高君の髪の色をほとんど茶色みたいに見せていた。瞳の色も薄い。こういう色の宝石があった気がした。
オレは何となくその日、別れるのが嫌で、5番ホームまでついて行った。ちょうどホームに電車が着いたところで、開いた電車の扉に人々が一斉に雪崩れ込んでいく。小高君もその後から電車に乗り込む。オレはホームに一人取り残された。遠くで工事の音が聞こえる。それをかき消すように駅員が何かアナウンスをして、それで発射のベルが鳴った。厚手の上着を着た乗客たちの間から、小高君は少しはにかんで手を振った。電車の中とホームには明確な隔たりがあって、まるで違う世界みたいに感じた。小高君とオレの住む世界は違う。進む方向も。ただ、今この瞬間だけ、わずかな時間、こちらとあちらは接続されている。扉が閉まる寸前、オレはとっさに電車に飛び乗っていた。
「どうすんの」
小高君が笑いながら言った。
「わかんない」
背徳感と好奇心で、心臓の音が聞こえるくらい高鳴っていた。
「うち遊び来なよ」
いたずらっぽく笑いながら小高君が言った。
小高君の家は白い大きなマンションの6階にあった。手際よくカギを開けて部屋に入る彼の後ろに続いた。部屋の中はきれいだけど汚かった。真新しいフローリングに脱ぎ捨てられた衣類や食べ終えた食品の包装、雑誌が廊下に散らばっていた。
「おうちの人は」
「仕事」
小高君の部屋は何もない部屋だった。ベットと勉強机。小さなクローゼット。それだけだ。窓を開けると冷たい風が室内に吹き込んでカーテンを揺らした。オレたちはベットに腰かけて話をした。電気をつけなくても、外の明かりで室内は暗くなかった。
「本田君はどうして受験するの」
オレはゆっくり考えて、いつもの当たり障りのない答えじゃなくて、本当の自分の気持ちに近い言葉を探した。
「良い仕事に就きたいから、そのために良い学校に行く必要があるんだ。将来は一人で生きていくことになると思うから。」
「つよいね。本田君は」
「小高君は?」
「僕は、なんでだろう。たぶん、お母さんを喜ばせたいからかな。離婚してから意地になって
るんだ、僕のお母さん。母子家庭だからって言われたくないんだよ。」
小高君の手とオレの手が触れた。故意に触れたのかどうかは分からない自然な触れ方だった。偶然手が当たってしまっただけかもしれない。遠くで子どもたちの嬌声が聞こえた。工事の音も。小高君の瞳の色が薄い。淡い褐色。琥珀の色だ。小高君がオレに笑いかけたけど、その顔は泣いてるようにも見えた。
薄紫に染まる夕方の商店街をオレと小高君は並んで歩いた。お肉屋さんの揚げ物の匂いとか総菜の匂いがした。
「駅まで送ってくれてありがとう」
「うん。またね」
それがオレが小高君を見た最後の姿だ。どういう理由があったかは分からないがその日以来小高君は塾に来なくなった。考えてみたらオレは小高君の事を何一つ知らない。塾で会うだけだったから、連絡先も知らない。
どうしても、もう一度会いたくて、電車を乗り継いで小高君の家を探したことがあったけど、オレはどうやっても彼の家を見つけることができなかった。
扉をノックする音でオレは我に返る。
「リク、ごめん。マフラー返し忘れちゃったから」
扉を開けると守がマフラーを持って立っていた。オレの恋人、村田守。オレは今、人生で初めて一人じゃない。
「ありがとう。温かかったよ」
「こっちこそ、わざわざありがとうな」
冬の厳しい西日が突き刺すように廊下を照らしている。
陽の光を受けて、守の髪の色が茶色く見える。瞳の色も薄い。淡い褐色。琥珀の色だ。
やっぱり守は小高君に似ている。
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