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第1話

及川悟(おいかわさとる)は広告代理店の営業として、入社二年目の秋を迎えていた。 大学生の時からこの会社でアルバイトをしていた為、実質三年目となる。アルバイト時代には雑務を一任されていて、そこそこ充実した毎日だったが、社員ともなると、そう簡単にはいかない。 一年目は右往左往して終わり、二年目はちょっとしたミスの積み重ね。日々ため息の数も増えてきた。 ただ職場の雰囲気は良く、人間関係も良好だ。職業柄、忙しい日々ではあるが、月一回は帰宅前に、みんなで飲みに行くこともある。 そんな中、一向に緊張が解けないものがある。 ものというより、人だ。 この広告代理店の代表者、 弓谷忍(ゆみやしのぶ)。弓谷は以前、大手の広告代理店に勤めていたが、退職してこの会社を立ち上げた。独立後はその独特なスタイルの広告や、キャッチコピーなどで多くの広告賞を手にしている。 センスだけではなく、頭が恐ろしく切れる弓谷は、経営にも長けていて、この広告代理店の利益は右肩上がりだ。 さらにそのルックス。少し長い髪をハーフアップにしてメガネをかけている彼は、男でもぞくりとするほどの美貌で、スタイルもモデル並みだ。 ただ、その美貌とは裏腹に、とにかく口が悪い。Sを通り越して「ドS」の部類に入るだろう。 男だろうが女だろうが、容赦なく言葉が飛んでくる。目に涙を溜めて、弓谷の言葉を聞いている女子社員など何度見たことか。それでも、彼が嫌で退職したという話は無かった。言葉はキツイが仕事の内容をフォローし、時には叱咤しながらも、的確なアドバイスを与える弓谷を慕っている社員がほとんどだ。 *** その日は朝から、弓谷の機嫌が悪かった。 「おはよーございま…うわ、弓谷さん今日はまた一段と…」 「そうなのよ…、あの資料を見ながらどんどん雲行きが悪くなっちゃって」 フロアの一番奥、窓を背にして椅子に座っている弓谷から、負のオーラが出ている。 周りの社員がヒソヒソ話しているところに、及川がドアを開け元気よく挨拶をする。 「おはようございまーす」 爽やかに挨拶をしたものの、事務所の空気がどんよりとしていることに気づく。 「どうしたんっすか…」 「弓谷さんの機嫌がね…」 及川の問いかけに、女子社員が答えようとした瞬間。 「おーちゃん、着いた早々だけどいい?」 弓谷が目にしている資料の向こう側から、及川を呼ぶ声が聞こえた。 一瞬、事務所に緊張が走る。 「ヤベー、出たよ、弓谷さんのちゃんづけ」 「こりゃあ、やられるなあ、及川」 弓谷が「ちゃん」づけで呼ぶ時。それはドS注意報発令だ。 及川もそれを重々、知っているので、カバンを机の上にほうり投げ、慌てて弓谷のデスクへ向かう。 正面に立ち、おずおずと話しかけた。 「あ、あの…」 「お前、何やってんだこの資料。何年やってんの?」 及川が作った資料を机に投げつけて、弓谷は冷ややかに及川を見る。 「で?いつ辞めんの」 *** 朝イチの弓谷からの攻撃に、完全にノックアウトしてしまった及川。昼休憩になって、先輩の森川と西野が外へ食べに行こうと誘ってきた。 乗り気ではなかった及川を拉致して、うどん屋に駆け込む。 「気にすんなよー、いつものことだろ」 森川がうどんを口に入れながら、そう呟いた。 「気にするなって言われても…もう何回も言われて…」 「何回も言われてるのも、まずかろうよ」 「西野!」 横にいた森川が肘で西野をどついた。 「やっぱり向いてないのかな…営業…、弓谷さんも呆れてますよね…」 及川にとって弓谷は仕事の出来る、憧れの上司だ。そんな上司のもとで働けることだけでも嬉しいはずなのに、こんなにミスが続いて恥ずかしくて辛い。 「呆れてんのかなあ?でも弓谷さんさ、及川のこと、大好きじゃん。まだまだ手放さないっしょ」 「そうそう」 森川の言葉に、西野がウンウンとうなづく。 「は?僕が好きってどーゆーこと」 「え、知らないの?バイトから社員になった時、弓谷さんの鶴の一声で決まったんだよ」 「今までさすがにそんなん無かったから、びびったよね」 二人の話に、及川は目をパチパチさせる。 「全然、知りませんでした」 「まあわざわざ言わないだろうしねぇ…バイトの時、いい働きしてたんじゃないの?」 森川はそう言うと残りのうどんを平らげた。 バイトでの働きといっても、あくまでも普通に雑務をこなしただけだ。それに、情だけで採用するような人物ではないことは及川でも分かる。 (どうして弓谷さんが…) 目の前のうどんを食べながら、及川はぼんやりと考えていた。

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