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幅広の階段を下るとセーラー服姿の少女が佇んでいた。顔も見えないその後ろ姿に覚えた感情は、憎しみだった。
何も考えていなかった。ただ衝動的に、その背に軽く触れた。
「あっ」
疑問符を含むあっさりした声と同時に、白い背中が宙に舞った。洗濯物が風にはためくかのように、ひらりひらりと翻る。
ふと、階下にいる男と目があった。驚きに見開かれたその瞳を見据えて、急激に己のなしたことを理解した。咄嗟に手を伸ばすが、間に合わない。
少女は冷たい床に叩きつけられた。
頭が真っ白になる。働かなくなった思考が、どうして、どうして、と反芻する。なぜこんなことになったのか。一瞬の間に今日一日のことが思い返された。
夏休みの開けた登校日だった。
ホームルームのあとに簡素な集会。そのあとは普通に授業が四時間。初日からやっていられるか、という気だるい空気が漂う教室に、これまたやる気のなさそうな中年男性教師の声がだらだらと響く。
残暑と言いながら昼間は盛夏まっさかりと何も変わらない暑さの中、やる気が起きないのは生徒も教師も変わらない。俺は窓際の席でぼんやりと校庭を見下ろしていた。この容赦のない日差しの中、一年生がサッカーの授業をしている。時折弾けるように笑い声が沸く。何がそんなに楽しいのだろう。こんな暑い日の体育なんてしんどいだけなのに。
「第四次中東戦争については前期にやったわけだが……」
うるせえなそもそも中東ってどこだハゲ。
自分の頭の悪さを棚に上げて心中で毒づく。机の上には開いていない教科書と、今日一度も使っていない文房具。頬杖をつきながら教室を見回す。皆一様にだるそうな顔をしながらも、だらだらと黒板をノートに写している。何が面白いんだ。こんなの。
ガタ、とわざと大きな音を立てて席を立つ。教壇から、そしてクラス中からの視線が集まった。
「……どうした、鷹羽 」
名前も知らない禿げ上がった教師がわざとらしく聞いてくる。顔が引きつっている。学校一の問題児が何をしでかすのか恐々としているのだろう。俺はこいつらに向かって大声をあげたことも、暴力をふるったこともないというのに。勝手にビビってろハゲ。心中であざ笑う。口では何も言わずに教室を出た。
「またかよあいつ」
「いい加減にしろよな、三年にもなって」
そんな囁き声を背にして、授業中の廊下を堂々と歩いた。
取り立てて特徴もない普通の私立高校。普通の奴ら。普通の授業。反吐が出る。息苦しさを取り払うように、制服のネクタイを緩めた。
いつものサボリ場所である水泳部の部室に、涼しい顔をした担任が姿を見せたのは四時間目が終わる少し前のことだった。
俺は別に水泳部員ではない。そもそも現在この学校に水泳部は存在せず、空き部屋になったこの部室を俺のような不届きものが有意義に利用させて頂いているに過ぎない。ほとんどの道具は持ち出されてしまってベンチとロッカーしか存在しない狭い部屋だが、居心地は悪くない。コンクリートが打ちっ放しの床からはひんやりとした空気が漂ってくるので、この暑い日に昼寝をするにはもってこいの環境だった。のだが。
「よっ。お寛ぎのところ悪いね」
そんな軽口を叩きながら入ってきた担任の香坂 は、高三の担任がそれで良いのかとすら思えてしまうこの緩さが売りの、人気の教師である。いつも寝癖だらけの髪に野暮ったい縁なしの眼鏡をかけ、そしてアイロンなどという文明の利器は知らんとでも言わんばかりにいつも皺だらけのシャツを着ている。そんな身なりに違わずとにかく緩くていつもだるそうにしているが、人望があるのは間違いない。二十九歳という、高三の担任にしては随分若い年齢のなせる業かもしれない。
だから俺みたいな問題児を受け持つ羽目になるんだろうなぁと、些か憐憫を覚える。
「わざわざ来てもらって悪ぃーけどさ。世界史とかまじでだるいし。どうせ聞いてたってなにもわかんねーよ」
今はもう使われていないプラスチックのベンチに寝転がったまま憎まれ口を叩く。このようなぞんざいな俺の物言いにも、香坂は慣れっこらしかった。
「だよなあ。普段から授業なんて聞いてないおまえの点数なんかには微塵も期待してないんだけどさ、石川先生がお怒りで探してこいって言うから」
つくづく教師としてそれで良いのかと耳を疑う発言だが、その気取らないところは、嫌いではない。
「イシカワって誰」
「おいおい教科担任の名前くらい覚えておけ? 世界史の石川先生だよ」
「あっそ。興味ねーし。ともかく教室には戻んねーから」
寝返りを打って香坂に背を向ける。しばしの沈黙のあと、ぺたぺたとサンダルを引きずる音がして、頭にぽんと温かさが降ってくる。それが香坂の手のひらだと認識した瞬間、体中の血が一気にめぐり出す。後ろを向いていてよかった。今はきっと、見せられないような顔をしているだろうから。
「ま、気が向いたら来い。昼飯はちゃんと食えよ」
苦笑いを含んだ声でそんな無責任なことを言う。ベンチからだらりと垂らしていた手をぎゅうと思い切り握りしめた。
「あと、もう少し前髪切れよ」
伸びすぎた黒髪をさらりと撫でて、熱が離れていく。向こうにしたら何気ない仕草だったろう。だが俺にとっては、正気ではいられなくなるほどのことだった。冷静さを失った自分を取り繕うように、精いっぱい機嫌の悪そうな声で唸った。
「いつもボッサボサのあんたに言われたくないんだけど」
「まあなあ。別に前髪長いから悪い奴ってわけでもなければ、服装髪型バッチリで、元気ハツラツだから良い子ちゃんってわけでもないけどさ。他人にどう思われるかっていうより、自分の損得で考えたら?」
「は? 何それ」
「無駄に敵を作るなって話」
分かったような分からないような一言を残して部室を出ていく担任の背中を、そっと振り返った。くしゃくしゃのシャツ。ぼさぼさの髪。野暮ったい眼鏡。しかし俺はその奥の瞳が思いの外力強いことを知っている。低く控えめなその声の心地よさも。そして今、その手の熱も知ってしまった。
閉まったドアをぼうっと見つめる。内側に燻っている熱は否定しようがなかった。
誰もいないくせに無駄に広いだけの家に帰り、まず向かったのは洗面所だった。先月大きなヒビが入ったはずの鏡は、いつの間にか真新しいものに取り換えられていた。俺が学校に行っている間に親父が業者でも入れて直したのだろう。
手を洗いながら、曇りひとつない鏡面を覗き込む。陰鬱な顔がそこにはあった。青白い肌に、ずるずると長い黒髪。今は左右にわけた前髪は、おろせば鼻の頂点あたりまである。
この前髪を掬い上げた指先を思い出しながら、そっと持ち上げる。目つきばかり鋭くて、子どもの域を出ない、何とも半端な顔が現れた。高校生にもなって、制服を着ていなければ性別が分からないとさえ言われる、この顔。どっちつかずな心の内を体現しているようで、俺はこの顔が大嫌いだった。
『もう少し前髪切れよ』
あの声音を、この額に、髪に、触れた指先を、思い出す。その感触を忘れまいと、必死に反芻した。
「くだらねえ」
ばさりと前髪を下ろし、みっともない顔を隠す。濡れた手も拭かずに二階へ上がり、自室のベッドに倒れこんだ。
「……こうさか」
香坂に触れられた額が、熱い。
少しでもこの熱が吐き出されないかと深く息をするが、興奮をぬぐい切れない自分の吐息に、余計もどかしさがつのるだけだった。どうせこの家には自分以外に誰もいない。俺は憚ることなく制服のズボンの前を開け、そこに手を差し込んだ。
触る前からそこは昂っていた。閉まり切っていないカーテンの隙間から差し込む西日の名残が眩しくて、目を閉じた。右手とそこに感覚が集中する。
「……ん、っ」
唇を噛み締めて、鼻で息をして。ゆっくりとそこを慰め始めた。
自分のこの、異常な性質に気づいたのはいつだったろうか。少なくとも中学を卒業する頃には、取り返しのつかないことになっていた。
周囲が夢中になっている女優やアイドルに性的なものや魅力を一切感じられなかった。クラスの女子にも嫌悪感しかわかなかった。所属していた陸上部で一番たくましかった同性の先輩を見ていて胸が高鳴った。
「う、ん……っ」
自分の異常さに気づき、急に他者との接触が怖くなった。周囲の人間は自分の本性など見透かしているのではないかという馬鹿げた被害妄想に苛まれ、どんどんと人の輪を遠ざけるようになった。
「……は、ぁ……」
周囲と自己との溝が深まるにつれ、心は凶暴になっていった。自分を理解してくれない周囲に腹がたち、理解されない自分を嫌悪し、はけ口を失った憤りは、俺の心をどんどん捩じ曲げていった。
色々なものを壊した。家の壁。家具。親父の馬鹿みたいに高い車。中一の誕生日に買ってもらった折り畳みの自転車も家のブロック塀に投げつけてぐしゃぐしゃになった。気づけば母親が出ていっていた。
「んっ、ぁ、はぁ」
自分の心身の歪みを受け入れざるを得ないと理解したとき、俺はもう高校一年生になっていた。自らの内から湧き上がる歪んだ性の衝動に、目を瞑ることは難しかった。
全てを隠し通して、ごく普通の高校生になることはできなかった。クラスメイトとどう話していいか分からなかった。自己をどう表現していいのか分からなかった。ごく普通の平和な高校は、俺のような異常者を受け入れてはくれなかった。
結局、高校にも、家にも、どこにも俺の居場所はなかった。
「……香、坂……」
担任の名を呼び、顔立ちを、声を、思い出しながら、熱を高める。
俺は「常識」と「当たり前」を押し付ける教師というものがこの世で一番嫌いだったが、香坂のことは好きだった。あいつは全然教師らしくない。偉そうなことも正論も言わず、ただどこまでも人間くさい。近所のにいちゃんみたいなその雰囲気を、俺は好んでいた。一年生のときに古文の担当となったときからそう思っていたので、どうにか進級できた三年で彼が担任になったときは心底嬉しかった。
人間としての好意が邪なものに変わったのはいつだったろうか。あの腕に抱き締められたいと思ってしまった。あの目に見つめられたいと思ってしまった。あの人に愛されたいと思ってしまった。
「先生、っ……」
時々、彼を夢に見る。夢の中での彼は、俺の頬に触れて、唇を寄せてくれる。俺の小さな体を抱きしめて、背を撫で、優しい言葉で語りかける。そして俺を抱いてくれる。優しくやさしく、俺を求めてくれる。そんな夢を見て目覚めた朝は、いつも罪悪感に襲われた。
自分の卑しさに本当に反吐が出る。自分の価値のなさは自分が一番よく分かっているというのに、どの口が愛されたいなどとぬかすのだろうか。
「せんせえっ」
呼びながら、果てていた。
体はいまだ熱が冷めやらないが、頭の奥が妙に冷えている。
「……先生、か」
高校三年生。九月。
もう時間はない。俺と香坂の関係性は揺るがない。どうなるはずもない。卒業も迫っている。先のことも考えなければならない。
汚れた手のまま、シーツをぐしゃりと握りしめる。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
満たされないことが多すぎて、何もかもが限界だった。
(何かに、だれかに、慰められたい。)
無意識のうちに左手がスマートフォンを操作していた。もう何度も開いては閉じたページをまた開く。俺のような、いわゆるマイノリティのための出会い系サイト。
目ぼしい相手はすでに見つけてあった。最後の一歩を踏み外す勇気がなかなか出ず、躊躇っていた。その一歩を超えてしまったら、自分の異常性を認めてしまうことになる。もう、知らないふりをしていた頃には戻れない。
――苦しかった。限界だった。
文面は既に練ってあった。
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