14 / 14

14

「卒業したかったら一週間で全部提出しろよ」  今まで好き勝手さぼってきた報いは受けなければならない。放課後の教室で香坂から突きつけられたプリントの山を前に、俺は固まっていた。見ているだけで気絶しそうな量だ。ほとんどの生徒が下校した教室内には、俺と、香坂と、そしてなぜか隣の席に辻がいて、同じようにプリントの山とにらめっこしている。 「一週間って……七日しかねぇじゃん。なぁ香坂分かってんの? 一週間って七日しかねぇんだけど」 「おう。だから四の五の言わずとっとと手をつけなさい」  交渉の余地はないらしい。しぶしぶ、一番苦手意識の少ない数学から手をつけることにした。 「ていうか何で辻いるの」 「アホだから」 「おいっ。担任が生徒にアホとか言うなよっ。俺は志望校が危ういから自主的にやってるのー!」  そんなくだらないやりとりをしながら、デタラメな数式を書き込んでいく。間違っている自覚はあるけれど、とりあえず埋めるのが先決。暇なのか、香坂は教卓に頬杖をついてぼけっとしている。本当に、そういうだらしないところが無ければもっと格好いいのに。まあ、そうだったら好きになっていなかったかもしれないけど。 「あ。香坂、そういえば」 「鷹羽、さっきから思ってたんだけどお前、先生ってつけろよな」 「俺進路決まったぜ」 「無視かよ……って、え?」  期待の眼差しを向けてくる香坂を正面から見据えるのはどこか気恥ずかしくて、そっぽを向きながら小さめの声で言った。 「専門学校。心理学系の」 「心理学?」 「カウンセラーの資格とりたいんだ。俺」  前から少し考えていたことだった。雅が俺の歪んだところを受け止めてくれたように、誰かの受け皿になれたらいいのにと。しかし切欠がそれだっただけで、別にカウンセラーではなくても良かったのだと思う。何か、やろうと思うことを持てた。そのことが一番重要だった。  そっか、と香坂は笑う。その笑顔から感じるのは親が我が子を見るような慈しみで、俺が香坂に求めていたものは雅に対するそれとは根本的に違ったのだと、今更ながらに気づいた。 「まぁ……お前がやりたいと思うなら何でもいいけどさ。親御さんは何て言ってんの?」 「好きにしろだって。あ、ちなみに学費は雅が払ってくれるって言ったけど断ったから。奨学金もらう」  真っ暗に閉ざされてどこに向かうのかも分からなかった未来が、雅という居場所を得ただけで次々に開いていく。それが嬉しくもあり、しかし、未知の世界に向かう怖さもあった。 「えぇ? 出してもらえばいいじゃん。金持ちなんだろ? 先生のお兄さん」 「らしいな。そういえばなんの仕事しているのか聞いてねえや」 「えっ知らないの? お前」  驚いたのは香坂だけではなかった。辻も信じられないという顔でこちらを見ている。在宅でできる仕事だということだけは知っているが、聞く機会がなかったのだから仕方がない。しかしふたりの驚きは、俺が考えているところと少し違うところにあるようだった。 「まじかよ。俺でも知ってる名前だったのに」 「いやあ。雅の知名度も大したことねえな」  は。 「え、何? 有名人なの?」 「いやあ俺らの口からは何とも……」 「まあねえ」  しかし言われてみれば、あの容姿だ。たとえば画面の向こうでその辺の綺麗な女優とドラマに出演していてもおかしくはない。でも在宅とは……。  数式など頭から吹き飛んで混乱する俺に、香坂が苦笑しながら教えてくれた。帰りに本屋に寄って、ある雑誌を買え、と。  学校から自宅までは徒歩十五分ほどであり、おもに住宅街や線路沿いを通るために間に書店はない。遠回りをする羽目になった。一度帰宅して自転車を走らせればよかったと思うが、医者からはしばらく運動をするなと止められている。頭の傷は塞がったばかりなのだ。結局自宅とは反対方向の駅ビルまで歩く羽目になった。  夕方、学生やらサラリーマンやらでごった返すビルの中をすり抜けて四階の書店に向かう。目的の雑誌はすぐに見つかった。香坂は買えと言ったが、買ったところでどうせろくに読まない。心の中で書店に謝って立ち読みすることにした。  一冊手に取り、表紙を開こうとして、固まった。探すまでもない。そこにでかでかと雅の名前があった。 『ベストセラー作家・本郷雅の素顔は希代の美形! 本邦初の対面インタビュー』 「ベスト、セラー……?」  作家。小説家。小説を書く人。雅が?  信じられない思いで中を開く。目玉らしいその記事はすぐに見つかった。カラーででかでかとその写真が掲載されている。絵画から飛び出してきたかのような美しさ。均整のとれた体。柔らかそうな薄い茶色の髪。彫の深い目元。何度も間近で見てきた、まごうことなき雅の姿だ。小綺麗なスーツに身を包んで、こじゃれたカフェのようなところでインタビューを受けている。  写真をゆうに三分は見つめてから、記事の内容に目を向ける。それは記者との対話形式で掲載されていた。 ――あの官能的で退廃的な世界を描く本郷さんがこんなにお若く格好いい方だなんて本当にびっくりですね。 本郷:ありがとうございます ――どうして急にメディアの前に姿を現そうと思ったんですか? 本郷: そうですね。色々と理由はありますが、今までは顔を合わせづらい人がいたので写真などはご遠慮頂いていたんです。ですが最近その人と和解をしまして。以前から出版社の方にご要望をいただいていたこともあり、このような形になりました。 ――和解、ですか。それはもしかして昔の恋人とか……。 本郷:いえいえ家族ですよ(笑) たったひとりの肉親です。 ――ご家族ですか、残念(笑) 本郷:それとは別に大切な存在はいますけどね。 ――そうなんですか? 本郷:本なんて読まない人なので、私が作家なことすら知っているか危ういですけどね。今回の作品はその人をイメージして書きました。 ――本郷さんそれは女性ということでよろしいですか? 本郷:どうしてでしょう。 ――はい? 本郷:男性の相手は女性に決まっている、という決めつけはよくないですね。そういう軽はずみな世間の声が、どれだけの人を傷つけているか。そんな話もこの一冊に織り込みました。  雑誌を片手持ちに切り替え、空いた片手で胸元を握りしめる。そうしないと、嗚咽してしまいそうだった。 ――配慮が足りず申し訳ありません。 本郷:いえいえ。無理に新刊の宣伝をねじ込みたかっただけですから。 ――(笑) 本郷:今作『途上』は偏見と闘う青年の話です。私自身、偏見というものを長年意識してきました。ずっと姿を公にさらさなかったのには、前述したほかに世間の偏見を恐れたという理由もあります。 ――確かにこれだけ目立つ外見ですからね。 本郷:それもありますし、実は私は中卒なんですよね。 ――えっそうなんですか。 本郷:本好きだった祖父の影響で文学には触れてきたのですが、教養のなさには苦しみました。そういうところも、作品を色眼鏡越しに見られてしまう原因になるかと思い、極力私という人物を不透明にしてきたんです。 ――では、本郷さん自身そういったものと闘うおつもりになったので、今回の本と同時にメディアへの露出を決意なさったと。 本郷:そうですね。できれば幅広い層の方読んでいただきたいです。主人公の、思わず抱き締めたくなるようなか弱さと、小さな身体で必死に生きている健気さが伝われば幸いかなと。  雑誌の隣に平積みされていた『途上』という題のその作品を手にとり、レジに小走りで向かう。会計をして袋詰めされる時間ももどかしく、商品を受け取るや否や、思わず駆け出していた。  エスカレーターを急ぎ足で下って、店を出る。帰宅する人でごった返す大通りを小走りで駆け抜けた。自宅とは反対の方向へ。  話したいことがたくさんある。俺のこと。俺たちのこと。これからのこと。未来はきっと順風満帆ではない。俺は今でも世間の目が怖いし、自分の足元が見えなくなるときもある。雅も時々無意識に手が出ることもある。つまずくこともたくさんあるだろう。けれど一人で声を荒げて何かを壊すことはもうない。弱い俺の悲鳴を受け止めてくれる人がいるのだから。  強そうに見えて実は脆い彼にとっても、そういう存在になりたいと思う。そう思える自分が誇らしかった。

ともだちにシェアしよう!