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70.バターとミルク

 ――夜の8時を過ぎた頃。紺色のジャージに着替えたルーカスは一人キッチンに立っていた。ゆで上がったマカロニをざるで切り、湯立ったそれらをフライパンにのせていく。  あの後景介(けいすけ)は一人浴室に向かった。30分近く経つが未だ出てくる気配はない。 「ガチで頑張んないと……」  そのためにもと、マカロニに温めた牛乳とバターを絡ませながら振り返りをしていく。  ――景介はルーカスを受け入れた。  しかしそれは、ルーカスの主張を聞き入れてのことではない。  ――ハメ撮りはしない。  その交換条件として秘所を明け渡したのだ。ルーカスが写す世界をこの上なく美しく、大切に思っている。だからこそ、(けが)すようなまねはしてほしくない。そんな温かなで尊い思いまで添えて。  我を通す代わりに全身全霊をもって愛し、大切にする。稚拙(ちせつ)な決意を掲げた挙句、欲に(おぼ)れた自分とはまさに雲泥の差だ。 「ほんと、ガチで頑張んないと――」 「風呂と着替え、ありがとな」 「……へっ? うぉあっ!?」  いつの間にやら上がってきていた。灰色の上下スウェット姿。髪はしっとりと濡れ、より(あで)やかな烏羽(からすば)色になっていた。 「これ新品だろ? 悪いな、気ぃ遣わせて」  彼から借りたスウェットは、一回り以上大きかった。自分のものでは窮屈(きゅうくつ)だろう。そう思い、急(きょ)買い出しに出たのだ。 「っ! 気にしないで。オレもほら、新品の下着。微妙だなんだって言って貰っちゃったからさ」 「……返してくれてもいいけど」 「え……っ? ……はっ!? えぇッ!?」 「サイズ、合ってないんだろ?」  そういうことか。一層顔が、全身が熱くなっていく。 「ちょっ、ちょうど良かったから! だ、っ、大丈夫」 「……そうか」  そう言って景介(けいすけ)(ひか)えめに笑う。見透かされているのだろう。堪らず目を逸らすが、また直ぐに戻してしまう。  ――撮りたい。  だがダメだ。この衝動を巻き起こしている感情は、あの時抱いたものと同じ類のもの。カメラを構えるわけにはいかない。これ以上、景介を悲しませるようなことがあってはならないのだ。唇を噛み、顔を俯かせる。 「なっ!? 何――」  不意に腕を掴まれた。言わずもがな相手は景介だ。 「やっぱすげえな」  右(そで)を肩まで(めく)り、上腕を撫でていく。(あお)っているのではない。愛でている。例えるならそう自然を相手にするように。 「これも写真を撮るために?」 「う、うん! まっ、まぁそんっ、そんなとこ……」  動揺丸出しの飛び飛びの声音だったが、呆れることもからかうこともなかった。腕に夢中になっているから。――かと思えば次第に高揚感は薄れ、悲しみに染まっていく。 「ま、マッチョなオレは嫌い……?」 「いや。むしろ尊敬してる。……っつーか、焦ってる。やっぱ3年はでけぇなって」  ブランクのことを言っているのだろう。  ――3年だ。  不安に思うのも無理はない。 「大丈夫だよ。ケイは頑張り屋さんだから」 「すげぇプレッシャー」 「えっ!? あっ! ご、ごめん」 「分かってる。ありがとな」  耳を疑うほどにやわらかな声音だった。例えるならチェロだろうか。もう一度聞きたい。どうしたらいい。必死になって頭を働かせる。 「これは?」 「……んっ? ああ、父ちゃん直伝のマカロニ&チーズだよ。アメリカの家庭料理っていうのかな?」  返しながらマカロニにチーズソースを絡めていく。景介はそんなルーカスの手元を見ながらきゅっと唇を噛み締めた――。

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