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71.君色の景色

「口に合うといいんだけど――」 「故郷には帰ってないのか?」  手がぴたりと止まる。覚悟はしていた。いつかは聞かれることになるだろうと。けれど、今はまだ難しい。前向きな答えを口にするのには、まだ。 「……帰ったよ。母ちゃんのお葬式は向こうでやったから」  母には両親も、兄弟も、親戚もいない。  ――捨て子であったからだ。  故に父からプロポーズされた時、ルーカスを産んだ時には涙ながらに喜んだという。『夢が叶った』と。罪の重さを再認し固く目を閉じる。 「……けど、教会に行く時以外は一歩も。……余裕なくて」  滞在期間中、父から何度となく声を掛けられた。ポプラの森に行こうと。その度に謝り、断った。あの森に心惹かれたのも逃避のため。単なる思い込みに過ぎなかった。そう思い知らされるのが怖くて。  弱い自分が心底に嫌になり、木べらを握り締める。すると直ぐに白い手が伸びてきて――そっと包み込んだ。ひんやりと冷たい手。にもかかわらず、心がじんわりと温まっていく。 「……っ、ありが――っ!」  礼を言いかけてはっとする。なぜ、今の今まで気付かなかったのだろう。あの時、父が自分に求めていたのは(なぐさ)みだったのだ。父にとっての母は、自分にとっての景介(けいすけ)だ。そんなかけがえのない存在を何の前触れもなく失ったのだ。拠り所を求めるのは至極当然なことだ。それなのに自分は。  後悔で視界が歪んでいく。しかしながら、いくら悔やんでも過去には戻れない。今のルーカスに出来るのは前に進むこと。ただそれだけだ。木べらをフライパンの淵に置く。往生際悪く戦慄(わなな)く唇に力を込め、隣に立つ景介を見据える。覚悟を感じ取ったのか景介は静かに息を呑み、手を離した。 「ポプラってね、すっごく背が高いんだ」 「どのくらい?」  何の脈絡もなかったが構わず笑顔で返してくれる。 「う~ん……10階建てのマンションぐらい?」 「すごいな」 「でね、ポプラの先に広がる青空は、すごく、すっごく綺麗でね……。葉っぱが黄色くなる秋は本当に、本当に……最高なんだ」  ポプラの森を思い浮かべる。  ――変わらず美しいと感じた。  この気持ちの真偽は。悩みかけて止めた。あの森が繋げてくれた未来。それが今だ。それでいい。十分だと自身に言い聞かせる。 「見てみたいな。お前色の景色」 「オ、オレ色?」 「青い空に黄色の森。同じだろ? お前と」  白く骨ばった手がルーカスの両の上(まぶた)、髪を撫でていく。甘酸っぱい。どうにも慣れない。慣れる日などやってくるのだろうか。 「なっ、何かそれ(おこ)がましくない?」 「別にいいだろ。俺が勝手に思う分には」  景介は言いながら前髪と両目の上(まぶた)にキスをした。驚いて彼の方を見るとまた微笑まれた。惜しみなく注がれる愛に心がもたれていくのを感じる。 「皿、取ってくる」  静かに離れていく。名残惜しく思いながらも料理の仕上げに取りかかる。あの森に立てるようになるのは、5年、いや、10年先か。今は予想すら立たないが、いつか必ずあの森に行こう。  ――景介と二人で。  ――数日後。  ルーカスは照磨(しょうま)のもとで人物写真を。景介は(すすむ)のもとで人物・風景画を学ぶことになった。今日はその初日。それぞれの活動場所に向かう途中にある渡り廊下。人通りの少ないこの場所で茶封筒を手渡した。中に入っているのは例の彩雲の写真だ――。

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