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菖蒲-1

 指定されたホテルに着く。  フロントで、指定された仮の名前を告げる。 「皐月(さつき)菖蒲(しょうぶ)、…ですけど。」 …相変わらず、変な名前。 「承っております。おつかれさまでした。お部屋はすでに準備が整っておりますので、ただいま鍵をお持ちいたします。少々、お待ちくださいませ。」  フロントの大人たちは、どこのホテルでも、こんな子どもの僕に対してですらいつも慇懃で、やたらと恭しく振舞う。それはそうだろう。こんなのただのマニュアルなんだから。  それとも、僕の中学の制服や校章に見覚えがあり、そこから僕の家庭の経済事情とその未知なる権力から派生するなんらかの影響力とを勝手に分析して、『へりくだっといてまあ損はない』と瞬時に判断し敬服した態度を示している、というところなのかもしれない。 …どうでもいいけど。 「お連れさまはすでにお見えです。お隣のお部屋にいらっしゃいます。」  部屋のカードキーを渡される。 (お連れ様さま…か。) 顔も知らない他人なんだけどな。 「…どうも。…エレベーター、どっちですか。」 …今日で、終わりにするんだ…  エレベーターの中で、何度も自分に言い聞かす。  こんなのは、今回で、終わり。  あんなクスリに頼った僕が馬鹿だった。  結局、成績はたいして上がらなかった。  確かに初めて使ったときは、すごく頭が冴えて点数も一気に伸びた。だけど、それがいけなかった。  結局そのときがMAXで、あとはそのときの感覚が忘れられなくなって、…ズルズルと今に至る。  附属中学の編入学試験にはなんとか合格できたものの、塾での成績は相変わらず横ばいだ。 ―― 使っても使わなくても同じじゃないか…。それならもう、使って気持ち良くなったほうが、気晴らしになっていいんじゃないの?  少し前までの僕はそう思っていた。  なにしろ、あのクスリを使うと、どこからともなく自信が満ちあふれてきて、自分がまるで別人になったかのように気分が高揚し、なんでも思い通りに出来る気がしてくる。  特に寝る前に飲むと、空を高く飛べたり行きたい場所へ行けたり、とにかく楽しい夢が見られるし、朝もスッキリ目が覚める。その効果は目覚めてもしばらくは続くから、少なくとも午前中は楽しい気分で過ごせる。  エレベーターのドアが開く。  足を踏み出すと、一瞬、やけにふかふかとした廊下の絨毯に現実味を奪われる。  本来の僕の現実では、今頃は塾に着いている。エレベーターが開けばその向こうには、硬く冷たい白色のタイルが拡がっている。  塾では、ぎらついたような死んだような、変な目をした学生たちが同じ方向を向いて漂いあっていて、彼らは均等にしきられた空間のなかで、机を見下ろしてみたり、お互いをライバル視するようににらんでみたり、傷を舐めあうふりをしたりしている。 …でも、そこが僕の現実世界であり、今、僕が持っているなかで唯一にして最大の、“成功”という名前の到着地点へ向かうための、“乗り物”。  なのに僕は今、その世界から遠く離れてこんな場所にいる。カードキーに刻まれた部屋番号を頼りに、クラシックが流れるホテルの廊下を、さまようように進んでいる。  皐月さんに会うべきじゃない。  こんなことは間違っている。  ここは僕がいるべき場所じゃない。  カードキーを指に挟んだまま、少し目をつぶる。 …どうしてこんなことに。  塾で、このクスリを取り扱うサイトを紹介してくれた、中基(なかもと)のことを思い出す。  中基は言っていた。 『中和剤があるから安全だよ。やめたいときにはすぐやめられるよ。』  最初にクスリを使ったのは、とにかく1点でも偏差値を上げたかったから。  編入学試験に合格したらやめようと思っていた。  中基(なかもと)の成績が1人だけぐんぐん上がって、それはどうやらこのクスリのおかげらしいという噂は、水面に広がる油膜のように静かに素早く広まった。  僕は秘かに中基(なかもと)に事実を確認した。わらにもすがる思いでクスリを手に入れる方法を聞きだした。  たぶん、それは僕だけじゃなかったのだと思う。中基はにやにやして、『お前もか』 というふうに僕を見ていた。情報料は5000円だった。  僕が、そこまでして偏差値を上げたかった理由。  それを考えると、脳裏にの顔が浮かぶ。  最近、とはロクな会話をしていない。どうせは僕の進路のことにしか興味がない。  の口ぐせは、ひとつ目が「 医者は出身大学で優劣が決まる」 で、ふたつ目が「お前は他の子どもより恵まれている」。なぜなら「私の病院にはお前のために常に最新の医療設備とスタッフが整えられている」から。ただし「それを使いこなす能力は自分でしか身につけられない。父さんは、そこだけはどうすることもできない」。だから、「今はとにかく、勉強をがんばりなさい。」  の口ぐせは唯一、「あなたなら大丈夫よ」。  がなぜそれだけしか言えなくなってしまったのかというと、僕が中学受験を失敗したときに、に謝り過ぎて人間が壊れてしまったから。  それまでは何をやっても僕を褒めそやして抱きしめてくれたのに、中学受験に失敗すると、とたんに2人は変わってしまった。  僕が失敗することは彼らの人生設計の中には予定されていなくて、それは非常にまずいことだったのだ。  僕は期待を裏切ったと決めつけられ、今でも2人にウンザリされ続けている。  あの人たちは執拗で残酷だ。  僕の失敗を、僕が忘れることがないように、来る日も来る日も口にし続ける。  という手段を使って。  僕が前の中学校でどんないい成績を取ろうと、その失敗は拭えなかった。  編入試験に合格すれば元通りになる。そう思っていたけど、それも甘かった。  築き上げてきた信頼を完全に失墜させるには、たった一度の失敗で充分だったのだ。 “なんとか軌道に乗れたとしても、無事に着陸できるまでは油断が出来ない子だ。”  その意識は払拭できない。  2人とも、僕をかわいがってくれているのは十分わかるし、感謝もしている。  だけど、僕だって気づいてはいる。  彼らが、自分たちの幸せを実現させるためのツールとして僕を飼っているに過ぎないのだということくらい。  (…は、ここにいるのに。)  確かに、あなたたちが思ってるほど出来は良くないかもしれないけど、僕は確かにここに存在しているのに。 …いや、よそう。  幼稚な子どもみたいだ。  僕はまだここにはいない。あの人たちが思い描く理想のは、きっとまだ現れてないだけ。 ―― だから大丈夫。 ―― 僕が何をしても、あの人たちは気づかない。  僕が見えてないんだから。  だから、悪いこととわかっていたのに、クスリをやめられなくなった。  僕はが見えないからといって寂しがって暴走するほど馬鹿じゃないし、そんな力も、やる気もない。  だいいち、僕の能力の乏しさは僕が一番よくわかっている。だからの不安や焦りは理解できる。  悪いのは、僕。  試験には合格したのに、結局クスリをやめられずにいるのは、こんな僕の弱さのためだ。  学校での、編入者としての劣等感。焦り。  家での、常に期待され、能力を楽観視され続けることへの疲弊感。その虚無感。  それらを耐え忍ぶため、現実から逃避するための手段として、クスリは、いつの間にか僕の「安定剤」と化してしまっていた。  クスリをやめなければ。  そう思い始めたのは、まず、中基(なかもと)の異変に気づいたから。    --------------→ つづく

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