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Where the pigs don't fly

 本当に辻はここを跳んだのか。この距離を、この高さを。  三階建ての漁民アパートは小さな港町の中では高い建物だった。  東棟と西棟の二棟が日の当たる方向を崖にふさがれた狭い平地に、双子が肩を寄せ合うように海を向いて建っている。  竜一は西棟の屋上に立っていた。  コンクリートの床は長く伸びて、東棟の丸い給水塔の下へ竜一を導いていた。  その間には当然、隔たりがある。  数日前、竜一はこの隔たりを辻が飛び越えたと高校のクラスメイトから聞かされた。友人はまた別の友人から聞いたという。噂の元をたどると、どうも坂口に行きつくらしい。  辻も坂口も竜一の中学時代の同級生であり、同じアパートの住人だ。全く耳に入らないというのも解せないが、思い当たる節もあった。  竜一は地元の高校には進学しなかった。汽車とバスを乗り継いで一時間かかる高校に入った。  アパートに住んでいる同級生は皆地元の高校に進学した。  それから、連中とは不思議と顔を合わせなくなった。  物心つくころから中学まで、特に約束などしなくとも自然と集まって、何となくその日その日に見合った遊びをしていた。  雨さえ降らなければ、いや少々雨が降っていても波止に行けば誰かが竿とタモを持ってうろうろしていた。  それが今は後ろ姿さえ見ない。  竜一は昨夜、アパートの前で坂口を待ち伏せした。坂口は学校指定のものらしい赤いジャージを着て、水銀灯の光の向こうからぶらぶらと歩いてきた。  ほんの半年ほど顔をあわせなかっただけで、坂口は他所者を見るような目つきで竜一を睨みつけ、すぐに目を伏せて無言で脇をすり抜けようとした。 「辻が屋上跳んだって、本当か」  自分でも性急すぎたと思った。  辻が屋上を跳ぼうが跳ぶまいがどうでもいい。感傷的な気分に決着をつけたかっただけだ。  それが、人生における重大事件が起こったように上ずった早口で坂口を問い詰めていた。  坂口の口元が余裕を見せるようにゆがんだ。 「本当だぜ。俺見たんだ。辻くんが跳んだところ」  港内にぽつりぽつりと灯る青白いあかりにアパートの建物がぼんやりと浮かび上がっていた。二棟の間の暗闇を見つめて、坂口は次第に竜一の存在を忘れたように恍惚とした表情になっていった。 「めちゃくちゃかっこよかったぜ。赤い鳥……」  坂口はふっと言葉を飲み込み、階段に向かって歩き出した。  竜一の耳にひそやかに忍び込んできたのは、坂口が発したとは思えない甘ったるい言葉だった。 「天使だ」 「……馬鹿馬鹿しい」  何が天使だ。  心底くだらない。  一晩中つぶやいて、夜明けと共にこの場所に来た。  古いからか、あくまで安上がりに建てられたからかしらないが、屋上に柵はない。二十センチほどの高さの出っ張りがぐるりとめぐっているだけだ。  西棟の端に近づくと、身を切るような冷たい風が建物の間から吹き上がった。 『風か……』  一瞬でも空想じみたことを考えた竜一は己を恥じた。覗き込んだ建物の隙間は下から見るよりも広かった。水平線を眼下にして海が見渡せる景色も、とてもではないが「ここから跳ぶ」という行為を後押しするものではなかった。 『考えるだけでも馬鹿だ』  本来ならば駅に向かわなかければならない時間がきても、竜一は立ち尽くしたまま動けなかった。  日が昇り、空が青さを取り戻す。塗りなおしたばかりの給水塔が真珠のように白く輝いた。  竜一は唇を舐めた。ほんのり塩辛い。北風が塩を吹き付けてくるのだ。この風にあたっては、洗濯機も車もガードレールも、金気のものはすぐに赤錆る。  沖からたてがみをなびかせて白い雲が駆けてくるのが見えた。  風が一段と強くなる。  みるみるうちに気温が下がっていく。  遠雷が鳴った。  あの雲が陸にたどりつくと、冬がやってくるのだ。  白い嵐が吹き荒れ、皆が下を向いて過ごさなければならない暗く寒い季節がやってくる。  竜一は踵を返して、西棟の給水塔の足場まで一度退いた。  東に向き直ると、学校に行くつもりで持っていた鞄を投げ捨て、ボタンが引きちぎれる勢いで学生服を脱いだ。  両手の指先を天に向けて全身を引き上げる。黒ずんだコンクリートを踏みしめてかかとを伸ばす。その場で足踏みを繰り返し、じっくりと鼓動を速めていく。  真珠の輝きだけを見つめて膝を高く上げ、腕を大きく振った。全身に温かい血が行き渡るように。  雲は海をほぼ覆い尽くした。  日は陰り、真珠はただの鉄の球に戻った。 『辻は天使じゃない』  それを証明するために、竜一は東棟に向かって走った。 二十センチの高さの障害物を踏みつけるか、飛び越すか。竜一の身体は飛び越える方を勝手に選んでいた。  世界で一番深いところで掘り出された青い宝石の中にいるようだった。  美しい。  今まで照れくさくて思い浮かびもしなかった言葉がすっと、身体に馴染んでいった。 『いける』  空想だと切り捨てた風が、竜一を押し上げる。 『辻が跳べたなら、俺だって』  跳べる。  空は竜一の傲慢さを拒絶した。  視界から青が消えてゆく。ざらざらとした灰色が理不尽なまでの速度で通り過ぎてゆく。  灰色の空間が終わると隅から隅までくすみきった、名を言うこともできない曖昧な色が現れた。  こんな色に触れたくない。  竜一はあがきにあがいて、身体をひねった。  音は聞こえた。ぐしゃりと缶がつぶれるような、いびつな音だ。  肩から全身に波紋が広がってゆく。関節の一つ一つ、細胞の一つ一つが、身体の水分を通って振動する。その振動は次第に細かくなってゆき、しっかりとした痛みへと変わっていった。  頭の上で雷が鳴り始めた。雲が陸を襲ったのだ。  瞼の裏に閃光を感じて目を開けようとしたが、暗くて何も見えなかった。  頬に何か小さなものが当たるのを感じた。雨粒よりも固い。雹だ。 『寒いはずだ』  妙に納得してから、竜一の意識は途絶えた。  薄目を開けると、白いカーテンが作り出す清潔な空間が目に入った。薄暗いアパートの天井とは違い、蜘蛛の巣一つない。  ベッドサイドの椅子に人影が座っていた。  竜一が壊した車庫の弁償費と入院費と、入るかどうか駆け引き中の保険金の話しかしない母親だろうか。  顔も忘れそうな父親か。それとも学校の教頭が「自殺ではない」ということを再び念押ししに来たのか。  人影は誰とも違っていた。  背丈こそひょろりと伸びたが、中学時代とさほど変わらない、息をするのも面倒くさそうに足を投げ出して、楽しい夢でも見るように目を瞑る辻の姿があった。  竜一の視線に気づいて、辻も目を開けた。  無様に横たわる竜一を見下すようにちらりと見て、ぼそりと辻はつぶやいた。 「俺は跳んでねぇからな」  それだけ言って椅子を立ち、背を向けようとした。 「坂口は見たって言ってたぜ。……天使だって」  辻は竜一が付け加えた一言にあからさまに苦い横顔を見せた。 「俺は……。俺は、西の屋上に行って、ジャージの上着を脱いだだけだ。ジャージが風に飛ばされて……。東の給水塔の足にひっかかった。それを取りに行った帰りに、下で坂口に会った。坂口がなんであんなことを言い出したかは……知らねぇよ」  戸惑いが辻の全身からあふれ出るようだった。  辻が赤面しているところなど滅多に見られるものじゃない。竜一は思わず噴き出した。  笑いながら、そういえば自分が脱ぎ捨てた学生服はどうなったのだろうと思った。しかし、それよりも気になるのは 「何で、ジャージ脱いだんだ」  辻はしばらく黙っていた。  竜一はふと、辻も同じ気持ちになったのではないかと思った。「跳んでやる、跳んでやる」と猛る気持ちが辻を駆り立てた。ほんの少しのタイミングの違いで、赤いジャージがそれを押しとどめた。  竜一に想像を巡らせる時間をたっぷりと与えてから、ため息まじりに辻は口を開いた。 「俺、あの色嫌いなんだ」 「ああ……あの、あずき色」  これが、天使か。  竜一は痛みを忘れて笑った。なんだかわけがわからないが、坂口がいたら褒めてやりたい気分だった。 「どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ」  つられて辻も笑い出す。 「てめぇも含めてな」  辻はくるりと背を向けた。それでも二人とも笑いが止まらなかった。  廊下に出てもまだ辻は笑っていた。  誰か年配の男性が「静かにしなさい」と注意する声が聞こえたが、辻は「うるせぇ、ジジィ」と言い返して笑い続けた。

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