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ひねもす(1)

 二階から眺める海からは鉛色が薄れ、日毎に青さを増している。  竜一は母親と朝食を食べて、まかされている家事を一通り終えると自室に戻り、わずかな休みのうちにも課題として出されている問題集を机の上に開いた。  海は凪いでいた。風もほとんどない。暑くもなく、寒くもなく、日差しが気になるほどの快晴でもなく、今にも雨が降ってくるのではないかと心配するようなぐずついた雲もない。物干しには貰い物のわかめが洗濯ピンチにはさまれてゆれている。  適度に薄曇りの、外でぶらぶら過ごすには絶好の日和だ。  うずうずする。  ちゃぷんちゃぷんとさざ波が手招きしている。冬場の突き刺さるような風も柔らかくゆるみ、竜一を誘い出す。  こんな日に勉強するなんてバカバカしい。休み――学校にに行かなくてもよいという日だが――はまだ一日ある。どうせこの天気は続かない。明日は雨に決まっているから、課題は明日にすればいい。  竜一は自室を出て台所に向かった。冷凍庫の奥の奥を探る。ほぼ一年ぶりなので記憶は定かではなかったが、たしか釣り餌用のオキアミをこっそり冷凍しておいたはずだ。  母親が始末してしまったのか、コロッケの山をほじくりかえしても餌は出てこなかった。オキアミは近所の店で買える。一パック五十円ほどだ。だが今の竜一には五十円も痛手だった。 「……どうしようかな」  虫をとりに行ったり、どこに行ったかわからないルアーを探すとなると面倒だ。あまり準備に手間をかけると目的意識をもって行動しなければならなくなる。そういうことではない。ただぶらっと外に出たいだけなのだ。  コロッケをもどして冷蔵庫をあけてみる。昼は適当に食えと言われていたが適当も何もまともな食べ物はちくわが一本きりだった。 「じゃあ、適当にやらせてもらいますか」  ちくわと釣り道具をバケツに入れて、ぽってりぽってり階段を降りて、波止に向かって歩く。  崖と海に挟まれた町は細長く東西に伸び、町に対して垂直に、海に突き出すように波止と呼ばれる突堤が何本もつきだしている。  アパートに一番近い波止は両腕で港を抱き込むように作られていた。海に向かって左には赤い灯台が、右には白い灯台が立っている。そのため左の突堤は赤波止、右は白波止と呼ばれている。  赤波止の方が町の中心近くにあり、白波止はやや町はずれの方だ。大体釣り客は赤波止の方が多い。今日も赤波止の方がにぎわっているようだった。  竜一の足はなんとなく、白波止に向かっていた。  波はほとんどない。係留されている船も波にまとわりつかれている程度の揺れしかない。  足元に影が横ぎった。  見上げるとかすんだ青の空にとけ込んでしまいそうに白いカモメが飛んでいる。    釣り道具をひっぱりだしてくるのはほぼ一年ぶりだがリールは回ったし糸もそんなに弱ってはいなさそうだ。浮きも壊れていない。針も重りもそろっていた。ルアーはどこにしまったのかやはり見あたらなかった。どっちにしろルアーで釣るほど大きな魚は港内では期待できないが。  餌がちょっと心許ないがどっちにしろ人間が食べるのだからかまわないだろう。  できることならシロギスをねらいたい。どちらかというと白身の方が好みだ。しかし一番好きなのは青魚のアゴだ。邪道と言われるかもしれないが、刺身より団子にして汁にいれて食べるのが好きだ。刺身だったら断然シロイカの方がいい。イカそうめんにしてどんぶり鉢からすすりこむのだ。しかしアゴもシロイカも夏のものだし、港内でとれるものではない。  もう少し前なら魚よりノリだ。正確に言うとここいらで「ノリと呼んでいる岩に貼りついた黒い海草」だ。スーパーで売っているような乾燥した板状の海苔と同じものなのかは知らない。それをざっと洗って砂を取り、ぎゅうぎゅう絞って醤油を垂らし炊き立ての飯にのせて食べるのだ。これがまた醤油と磯の香りと米の甘味が絡み合って何とも旨い。 「あー今年は食えなかったなあ」  アオサなどの海草は子どもが勝手にとってもそんなに怒られることはなかったが、ノリは売り物になるから勝手にとったら怒られる。大体の漁場が地区または家単位で決まっていて、組合に入っていないと取ってはいけない。  漁場も鑑札も持っていない竜一の家ではノリは買って食うものなのだが、年々とれなくなっているのか値段も上がり気味な上に、竜一のせいで出費がかさんだのか今シーズン食卓にあがることはなかった。 「まぁなんでもいいや」  上下二段にわかれた波止の下段をぶらぶらと行き、灯台にたどり着く少し手前に腰を落ち着けて、ちくわにがぶりとかみついた。しばし味わって、歯で小さくかみちぎった切れ端を口から取り出し、針に取り付けてふわっと海に落とした。  風はゆるゆると西から東に向かってふいている。港内にむかって糸を垂らすと逆風気味になるが、そもそもが適当な行動なのであまり釣果にこだわるつもりもなかった。  それにしてもまぁ、なんの手応えもない。期待をしていない以上に期待はずれだ。ねちねちと一口ずつちくわをかじっていったが、餌用には別にとっておかないともう無くなりそうだ。 「これじゃあ、ストレス解消……になんねぇかなぁ」  竿を引き上げてごろんとコンクリートの上に寝ころんだ。コンクリートは適度にぬくもって、ほっかりほっかりと温かい。

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