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ひねもす(2)

 地元の旧友たちは相変わらず竜一の存在をいないものとして扱っていたし、高校の方でもあまり人と話をすることもなくなっていた。 孤独であることは案外とつらくなかった。むしろ胸のつかえが降りたような気がしていた。高校に入ってからの一年、どこか無理をしていたのではないかと今では思っている。  去年の初冬、竜一が起こした事件について母親は「金がかかる」こと以外のことは言わなかった。近所の大人たちからは面と向かって馬鹿だとののしられた。  たった一時間、汽車とバスを乗り継いだ場所に移動しただけで、竜一の行いは違った風に受け取られた。 「いけそうだから、跳んでみた」  それで納得してくれる人間は誰一人いなかった。  教師たちは、竜一に「自殺でないこと」を念押しした教頭でさえも、竜一が事故を起こした動機を信じなかった。そんな馬鹿な理由で空中に飛び出す人間などいない、きっと別の理由があるはずだ。痛くもない腹を探られて不快な思いをした上に誤解が解けることはなかった。  決定的だったのは担任教師の一言だった。 「頑張りすぎてるなら、休んでもいい」  本人は優しさをこめて言っているつもりだろう。めがねの奥には、哀れみと、己が教師を務める「高級な」学校に入学してきた分不相応な者が、ついに弱音を吐き出すのを期待するまなざしが宿っていた。  竜一は何も言いたいことがなくなり、 「先生がもし俺と同じ境遇だったら、死にたいですか」 とだけ言った。教師からの返事はなかった。  自分の言うことを信用してくれない人間のずれた優しさに、竜一はため息をつき、口数を減らしていった。  父親のように自分の不安感を言葉に出せず、他人への暴力としてしか表せないような男にはなりたくなかった。父親が長く家をあけて戻ってきた後、母親はいつも顔を腫らしていた。殴らせるだけ殴らせて反撃はしない。しかし限界が近づくと父親の耳元で何かをささやいた。母親が何を言ったのかしらないが、その一言で父親はいつもおとなしくなり、二人は今竜一が私室として使っている三畳間に消えていった。  台所の隅で二人が出てくるのを待つ幼い竜一には、父親がひどく愚鈍な怪物で、母親が言葉に毒を含ませて怪物を操る恐ろしい魔女に見えた。  父親は魔女の館から逃げ出すように家に帰らなくなった。ただし、首輪はつながったまま。  今にして思えば言葉の力を信じすぎていたように思う。同じ言語を使っているはずなのに教師たちとは意志疎通できていると思える瞬間はなかった。  腫れ物にさわるような教師たちの態度は生徒にも伝わる。何かしら妙な噂が流れたらしい。年が明けたころクラスの中でも世話好きで通っている女子が竜一のことを「心配している」と言ってくれたが、そのころには竜一自身が高校での人間関係に完全に興味を失っていた。  竜一にはしっかりとした心の支えがあった。  辻は、わかってくれている。竜一が何故跳んだのかを。辻がわかっていてくれれば、誰に理解される必要もないと思っていた。だから、誤解混じりの優しさよりも孤独であることの方が心地よいのかもしれない。  辻と笑いあったあの日のことを思い出すと今でも楽しい気分になる。またあんな風に笑いあえたらとも思う。  日が経つにつれて思い出は美化され、きらきらと光り輝くものになっていた。いまや「もしかしたらあれが人生で一番最高の時間だったのかもしれない」とさえ思うほどだ。  辻とはあの日以来顔を合わせていない。  竜一にとっては心の支えといっていい記憶だが、辻にとっては些末な出来事なのかもしれない。  辻にとっての竜一の存在について想像すると左胸がきゅっと痛んだ。 『甘えだな』  いつまでも過ぎ去った思い出や心地よい孤独に浸っているわけにはいかない。なんのかんのいって、全ては金の話に戻ってくるのだ。  金がなければ始まらない。  竜一の人生は金を稼げる状態になったときから始まるといってもいい。  本来は父親が出て行った時点で竜一母子は漁民アパートを出ていかなければならなかったかもしれない。基本的には漁協の組合員の為のアパートだからだ。母親は組合員ではないが、父親とはまだ書類上の婚姻関係は続いている。お情けで住まわせてもらっているようなものだ。母子寮に入ることも考えたが子どもが男子の場合中学生までしかいられないとわかってあきらめた。  それだけではない。竜一は将来について一つの拘束があった。土地柄、少年たちには「どうにもならなかったら船に乗ればいい」という投げやり、かつ伝統的な風潮がある。  竜一はその風潮に乗ることさえできなかった。  酔うのだ。  乗る機会は多かったが、いつでもどこでも十分も乗ったら青い顔をしてげぇげぇと吐いてしまう。これでは漁師になることもかなわない。選手として選抜されるほどではなかったが、中学の時は一応陸上をしていたから、全く運動ができないわけでもない。泳ぎの方はいつ泳ぎ始めたのかわからないくらいだが、それとこれとはまた別の話なのだろう。ともかくも、この体質のせいで、竜一はとにかく勉強して進学校に進むという選択肢しかなかった。だから、高校の人間関係をこのまま無視し続けるわけにはいかなかった。  年度が替わる四月は人間関係を再び作り直すには良い機会だ。だが、またどこかで無理をしなければならない。無理をしていたという自覚が出てきた分、己を押さえつける力も強めなければならない。自分に嘘をつかなければならなくなる。  金のことを思うと学校の人間関係の中に帰って行かなければならない。  それを考えると辛さが増した。

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