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ひねもす(3)

 再び竿を引き上げて餌をつけかえ、今度は肩を大きく降って糸を遠くへ振り出した。肩を動かすと指先までぴりっと軽い痛みが走る。骨はくっついたが全く元の通りというわけにはいかなかった。 「金さえありゃあなぁ」  病院に行ってちゃんとしたリハビリもできるかもしれない。馬鹿をするにも金がいる。 「なんだ、金欠かぁ?」  急に上から声がふってきた。同時に鳥よりも大きな影がひらりと舞い降りた。  一歩二歩、前に踏み出してしまえば海に落ちてしまう狭い突堤に、右手にブリキのバケツを、左手に小ぶりながら竿を持った状態で辻はぴたりと着地を決めた。  ついさっきまでほろ苦い気持ちで考えていた人物本人が急に目の前にあらわれて、竜一は動揺しまくった。あわあわと手を踊らせて、危うく竿を波に流されるところだった。竿をひっぱりあげて四つん這いのまま竜一は辻をにらんだ。 「びっくりすんじゃねぇかよ……」  心臓がトクトクと波打っている。 「ちくわ?」  竜一の動揺を無視して、辻はプラスチック製の青いバケツの中に申し訳程度に残っているちくわのかけらと空袋を見咎めた。  竜一は内心舌打ちした。こんな貧乏ったらしいところを辻に見せたくはなかったのだが。 「ああ、うん。余ってたから、ためしに」 「ふぅん」  薄曇りだった空はやや明けて、粘度の高い波が太陽の光をゆらめかせ辻の横顔を照らし出した。中学を卒業してから丸一年、最後に会った日から三、四ヶ月。病院で見た辻は背ばかり伸びて中学時代とあまり変わらない印象だった。すぐ横に見る辻はたった数か月あまりで、ますます背も伸び肩も広がり、全体的に筋肉がついて少年っぽさが薄れ初めていた。  顔にはふわふわとして弱々しいが無精ひげまではやしている。 「体、治ったのか?」 「まぁ、大体」 「そうか」  辻はバケツの中から小ぶりの透明パッケージをとりだした。中には竜一が欲しかったオキアミが、しかも店で買ってきたばかりのつやつやのピンクオレンジのものがたっぷりつまっていた。  辻は雑にゴムバンドをはずした。オキアミが数匹こぼれ落ちた。 「それ、撒き餌だ」  落ちたオキアミを辻は海に投げ込んだ。すうーっと小魚が二、三匹、落ちたアミによってくるのか上から見えた。全く魚はいないわけではなさそうだが港内の魚にはやはりオキアミの方が人気があるようだった。  辻は仕掛けを作ると、豪快に竿を投げ入れた。  のたり、のたり、片栗粉でもまざっているかのようにとろみのある波が港内にたゆたっている。気温は上がり、やや暑さを感じるまでになってきた。竜一は明日は雨だと予想を立てていたがその予報はあたりそうだ。朝より天気はいいが、なんとなく風が湿っぽい。冬場のキンっと固く冷えた空気の名残は全くない、ゆるんだ湿り気が辻と竜一をとりまいてた。  竜一は何か身の内がざわざわしていた。緊張と言うほどでもない。照れくさいというのが一番近いだろうか。事故の一件の話がすんでしまえば、特に共通の話題もない。黙っているのが辛いような、しかし、言葉を使わず辻と連れ立っている、この空間に胸弾むものがあった。たとえ何を話さなくても、だらりだらりと一日を過ごしてみたい気がしていた。  辻はじっくりあたりが来るのを待ったりしない。割とせわしなく竿を引き上げて餌を付け替えたり、投げ込むポイントをかえてみたりしていた。竜一はちくわももうなくなりそうなので、ますますじっくりあたりがくるまで待つつもりだった。  餌が足りなくなって辻に借りるようなことにはなりたくなかったが、どうも分が悪そうだ。 「釣れねーなぁ」 「ああ、俺もずーっと丸坊主」  見れば対岸の赤波止にいた連中も人数が減っている。あっちも釣果はあがっていないようだ。それにそろそろ昼飯の時間だ。自力で調達するのを諦めてそれぞれ「御食事処」にでもいったのか。  昼飯をどうするか、喫緊の問題を解決しなければならない。ちくわはもう食い尽くしたも同然であるから、インスタントラーメンでもつくるしかないか。そのためにはアパートに戻らねばならぬ。辻はどうする気だろうか。一緒にアパートに戻るのだろうか。 「昼飯どうする」 「昼は……母ちゃんがタイマーかけて飯だけ炊いといてやるから、後はテキトーに食えっていわれた」  やはり同じアパートに住んでいるだけのことはある。大体みんな同じ生活水準で、片親でなくとも共働き、子どもは大きくなれば「食事は適当に」ということになる。とはいえ炊きたて飯があるだけ辻の方がいい。 「いいなあ、炊きたてご飯」 「ノリと食うと旨いんだよな」  話がやや飛躍したが、心地いい跳躍だ。  竜一は同志を得た思いだった。 「あれは、うまいなぁ」 「干して汁に入れたのも旨いけど、やっぱ生醤油をちょっとたらして………」 「そうそう、あれ最高だよな」  他愛もない話に夢中になっていると竜一の竿がぐんとたわんだ。 「え、なんだ?」  港内にこんな強い引きの魚がいただろうか。相手はぐんぐんと竿をひっぱる。痛んでなさそうだからと持ってきた糸だが劣化はしているに違いないのだ。釣り上げるまで持つだろうか。 「なんか、引きがおかしくねぇか?」  なんとなく今まで釣り上げたことがある、キスやメバル、イシダイなどとは違ううねりをもった手応えがする。 「慎重に巻けよ」 「わかってら」  向こうの体力を消耗させるために暴れるだけ暴れさせておいて疲れれたところをたぐり寄せる。こまめにこれを繰り返していく内に海面に魚影が見えてきた。 「あれ……なんだ?」  港内では見たこともない形の、かなり大型の魚だ。 「あ、タモ、竜一、タモは」  辻に久々に竜一と呼ばれて、どきりとした。  保育園ではお互い名前で「りゅういち」「ワタル」呼び合っていたのだが、いつの頃からか苗字で呼ぶのが普通になっていた。  辻には大した意味はないと思うが、竜一にとってはノスタルジー以上に生々しい手触りがあった。 「こんなにでっけえの釣れるとおもってなかったら、持ってきてねえよ。畜生」  ここまできて引き上げられなかったら泣くに泣けない。

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