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ひねもす(4)

 その時、どこからともなく声がした。 「どれどれ、貸してみな」  どこに隠れていたかしらないが、灯台の方から紺のヤッケにゴム長姿のじいさんがニヤニヤしながらやってきた。もちろん手にタモも持っている。まだ肌寒いのに海に入ったのか、少ない白髪頭の毛は濡れてべったり額に貼りついてた。  じいさんは竜一がお願いするまでもなく勝手にタモを差し入れて暴れる魚をすくい取った。  コンクリートの上に投げ出された魚は、 「でっけぇ……」 「こんなでっけえの見たことねぇ」  辻もあんぐり口をあけている。  竜宮城で踊っていたのはこのヒラメかと思うくらい肉厚で立派なヒラメだった。  竜一は辻と顔を見合わせた。 「これ、……どうする?」 「俺、ヒラメなんてさばいたことねーよ。アジとかイワシならともかく……」 「俺も……、あ、父ちゃんが漁協にいるかもしれねーから、もしかしたらなんとかしてくれるかも」  そこにじいさんが見るからに胡散臭げな微笑みを浮かべて二人を止めた。 「まぁまぁ、漁協まで行くとやっかいだ。まぁ、俺にまかせな。いいように食わせてやるから」  じいさんはそう言うと一度灯台の方へ引き返して自転車をひっぱって現れた。荷台は野菜や果物を収穫するための大型のかごが二段重ねで取り付けられていて、中にはぎっしり荷物が入っている。こんな突堤の先まで自転車でやってくるとは恐れ入る。  じいさんは鼻歌をうたいながら荷物を解いた。  リュックサックとクーラーボックス、大きめのボウル、それに給水コックまでついたウォータータンクを突堤のコンクリートの上に並べた。かごの中には重そうなウェットスーツが残されていた。  クーラーボックスの上にタンクを設置し、リュックから出したまな板をボウルの上に、まな板の上にウロコ取りと包丁を置いた。  まずは鱗をとり、ボウルの水で洗いながら頭や内臓の始末をしていく。次第に白く輝く身が現れる。じいさんは軽々と繊細に白身を切り分けていった。  竜一が辻と顔を見合わせた。二人とも涎がでそうなほどわくわくしている。 「ほいほい、ほいっと」  じいさんは滑るような手つきでヒラメの刺身を一盛り、紙皿の上に盛りつけた。じいさんは二人をちらちらと見ながら独り言のようにつぶやいた。 「醤油と、わさびがあったら、最高だろうなぁ」  辻が弾かれたように立ち上がった。 「俺、わさびとってくる」 「じゃあ、俺は醤油とってくる」  じいさんもに笑いながら二人の提案に賛同した。 「そりゃあいい」  辻と竜一は走り出した。  アパートの階段にたどり着き二階の踊り場で辻と分かれた。  醤油の小瓶を手にしてアパートを出た頃、辻はもう突堤の入り口のあたりまで行っていた。  なんだか、思ったより荷物が多い。  電気釜を丸ごと、それにレジ袋をぶら下げて、狭い突堤を飛ぶように走っていく。  じいさんのいたあたりまで行って辻は立ち止まった。きょろきょろとあたりを見回していたが、足下には竜一たちの釣り道具が残されているだけで誰もいない。さっきと違うところと言えば辻のブリキのバケツがひっくりかえっていることだけだ。 「……あれ、じいさんは」 「いねぇんだよ、おーい、飯も持ってきたぞー、一緒に食おうぜー」  じいさんは煙のように消え失せていた。 「わけわかんねぇなぁ……ん?」  さかさまになったブリキのバケツのふちに、ちらりと紙皿の端が見えた。 「おい、辻」 「なんだ」  竜一がバケツを持ち上げると中にはさっきの刺身がそのまま残っていた。  どういうことだろう。じいさんも一緒に飯を食っていけばいいのに。  その時辻が「あ」と叫んだ。 「あのじじい、半身持って行きやがった」  竜一もはっとした。たしかに、皿の上の刺身は半身分しかなかった。親切ごかしに半身を一人で食う算段だったのだ。 「そんなに、自分一人で食いたかったのかな……」  竜一がぽつりというと、辻はかぶりをふった。 「いや、……知ってて逃げたんじゃないか。もしかしたら、それ漁協で放流したヒラメじゃないか?」 「え。そんな話あったっけ?」  言われてみれば、町内放送で言っていたような、言ってないような。 「確か、父ちゃんが言ってたような」  辻の方も曖昧だった。 「でも、そんなのわからない……じゃないのか?」 「サザエとかはアワビは放流したやつだから、届けてないと密漁になるんだろ」  濡れた頭、充実しすぎた装備、漁協をさける。密漁者として疑わしい点は山ほどある。  ヒラメが問題ないとしても、あのじいさんは問題がありそうだ。 「か、金払わなきゃいけねぇのか?」 「うーん、わかんねぇ……でも、持って行ってやぶ蛇になるのもなんだしなぁ……」  じいさんはいない。だが、ブツは残された。  紙皿の上のヒラメは金粉をまぶしたかのようにみずみずしく光って、見ただけでその弾力がわかるようだった。  二人はしばらくじっと刺身を見つめていたが、辻が決断した。 「食っちまおう」 「いいのかなぁ」 「じいさんはいねぇんだし、このままじゃ俺たちだけが金払わされることになるかもしれねぇ、証拠隠滅だ。食っちまおうぜ」  ヒラメの刺身なんて何年ぶりだろう。中学校の時の親戚の結婚式で食べたきりかもしれない。白身は好みの魚だ。 「よし、食っちまうか」  じいさんの行動は鑑札を持たぬ密漁者の疑いが濃厚だったが、カモメに刺身をとられないようバケツで蓋をしてくれていただけ、まだいい人だったということにしておこう、ということで結論がついた。

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