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愛人と本妻(26)

 日が落ちる。境内に闇が降りてくる。街灯は壊れてしまったのか点いていなかった。  曲がりくねった木々の影が闇に乗じて神社の大屋根に襲いかかる。  鼻につんと煙草の匂いがしみた。  闇の中に小さな赤い光が脈打つように灯っていた。  光は一瞬強まり、ぽろりと地面にこぼれ落ちた。  壊れた街灯が一度だけぱっと点いてすぐに消えた。  光の輪の端に、幽鬼のように無表情な坂口が立っていた。 「坂口……」  闇の中から坂口の気配だけが伝わってくる。  ざりざり、ばりばりと砂利を踏み、枯れ葉を蹴散らす音が近づいてきた。 「なぁ、神楽やってるはずだろ。なんでやってないんだ」  ぬっと坂口が目の前に現れた。 「神楽は……、先週までだ」  竜一は息を飲んだ。みんな、変わってしまった。坂口も変わった。青白い顔は妙に腫れぼったく、目の下には隈が浮き出て、とても十代には見えなかった。 「嘘付け。今日は土曜だろ」 「本当だ」 「俺がしばらく居なかったからって、騙されねぇぞ」  坂口は聞く耳持たなかった。 「騙そうなんて思ってねぇよ。誰も、お前を騙そうなんてしてねぇ」  自分が信用されていないことを知ってしまったら、こんな風になってしまうのだろうか。  最後に坂口を見たのは、夏祭りの夜だ。素直に竜一を毛嫌いしていたあの頃は、まだ子どもらしいひねくれ方だったように思う。今は、ただ卑屈さだけが居座っている。 「信用できねぇ。特にお前は……裏切りもんが」 「裏切る?俺が?誰をいつ裏切ったっていうんだ」 「すっとぼけやがって!お前、一人でちゃんと勉強してたじゃねぇか。お前はこの町を裏切ったんだ」  竜一は坂口が何を言っているのかさっぱりわからなかった。 「お前みたいなガリ勉野郎とつるんでるから、辻くんは変わっちまったんだ」  暗がりにぬめりと白目が光った。ちらちらと赤いものが瞳にゆらめいている。 「変わったって……俺は、人を変えるようなこと、できねぇよ」 「変わったんだよ。春からこっち。なんだか、ちまちましちまってよ、禁煙するからお前らも煙草やめろとか、将来どうするとか、ちょっとは本読めとかよ、お前のせいで、辻くんは弱くなったんだ!」 「弱く……?」  全く会話がかみ合わない。  それでも坂口は何かを伝えたいから喋っている。竜一も坂口の言っていることの意味を知りたかった。だが軌道にとらわれた衛星のように、くるくると周囲を回るばかりで核心に近づくことはできなかった。 「全部お前のせいだ」 「一体、何の話なんだ」  かみ合わない会話に坂口もいらついているのか、その場でダンっと足を踏みならした。 「どうせお前が吹きこんだんだろ。暴力はよくねぇとか、ホーリツを守れとか、知ったらしいことをよ!」 「俺はそんなこと、言ってない」  むしろ、暴力に魅せられていた方だ。  白波止の幻想が頭に浮かんだ。幻想はもう生々しさを失って、古いフィルムの映像を見返しているかのように感じる。竜一の中ではすでに過去のものになっている幻想の中に、今の坂口が見えた。 「辻が……警察呼べって……言ったことか?」  竜一が何故その話を知っているのか、もはや坂口には関係がないようだった。 「……ぶっ殺してやる」  坂口の全身が次第に赤く染まってくる。とぼけたあずき色のジャージが燃えるような紅色になった。  坂口はジャージのポケットから小刀を取り出し、鞘をはらった。工作に使うような小さな刃物だが、十分凶器にはなる。  その時、竜一ははっと気づいた。  坂口の姿が見えすぎている。  見る間に明るさが増してくる。小刀の切っ先まではっきりと見えるほどになって、坂口の背後に炎が立ち上り始めているのがわかった。  煙草の小さな火が落ちたところに、何か燃え草があったのだ。  竜一が炎に気をとられて目線をはずした瞬間、坂口はまっすぐ小刀をつきだし斬りかかってきた。 「やめろ!そんなことしてる場合じゃ……」 「うるせぇ!お前さえいなけりゃ……。お前が跳ばなきゃ、辻くんは天使だったんだ!」  “天使”が一体何を意味しているのかはわからないが、竜一が辻の後追い――実際は辻は跳んでいないが――をしたのが坂口にとっては冒涜的な行いなのだ。  斬られた方の辻が悔やんで、悩んで、苦しみながらも坂口を救いたいと願ったのに、坂口は辻がどう思っているのかお構いなしに夢想の偶像に祭り上げている。  気に入らなければ、偶像を壊し、気に入らなかった理由を自分以外の者に求めて、安心しようとしている。  怒りというより、呆れた。  根っこの部分は同じだ。この廃れた町でくすぶっている豚の仲間には違いない。辻が警察を呼べと言ったことに、竜一も違和感を感じていたのだから。  だが、それを持って辻が弱くなったとは思わない。違和感ももうない。辻の判断は正しかった。 「お前……」  自分が坂口と共有していた感覚にずれを感じたおかげで、自分が免罪されるとも思わない。ずれを感じたからこそ、同じである部分が明確になった。それゆえに竜一は嘆息とともに口走らざるを得なかった。 「そんなに、馬鹿だったか?」  呆れて、呆れて、なんだか悲しくなってきた。 「なんだと、この野郎!」  竜一は言葉の選択を誤った。心からの嘆きだったとしても、今の坂口には挑発にしか聞こえない。

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