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愛人と本妻(27)

「火の用心!」  大きな声が境内にこだました。同時にばしゃんと水音がして炎は消えた。その人物は焼け跡を踏み消し、石段前の街灯で立ち止まると「よっと」と言いながら街灯に蹴りを入れた。街灯は眠っていたのを急に起こされたように慌ててライトを光らせた。  光の真ん中に辻が立っていた。 「辻くん!」 「ワタル!」  二人とも辻の名を呼んだ。 「ほらみろ!辻くんは来たじゃねぇか!やっぱ嘘じゃねぇか!なぁ、今日も神楽あるんだろ?」  自分の凶行などきれいさっぱり忘れて、坂口は辻の登場を喜んだ。 「ひさしぶりだな、坂口」 「神楽、見せてくれよ。なぁ?」  坂口は辻の顔を見ても、何とも思わないようだ。 「この前は、やってくれやがったな」  にやっと辻が笑うと、へへへと坂口も笑った。 「でもよ、辻くん、今の方がかっこいいぜ」  ほんの一瞬、辻は目を閉じた。ずきりと竜一の古傷が痛んだ。辻の嘆息は竜一にも向けられているような気がした。 「坂口よ、その、辻くんっていうの、やめろよ。辻か、ワタルでいいんだよ」  穏やかに、辻は坂口に語りかけた。 「何言ってるんだよ、辻くん。俺は……辻くんを呼び捨てになんてできねぇよ……」 「俺は天使じゃねぇんだろ。俺も、天使だなんて思われたくねぇ。呼び捨てで十分だ」  すっと坂口顔から笑みが消えた。小刀を持つ手が震えながら上がっていく。切っ先は坂口の喉元に届こうとしていた。  辻の拳が飛んだ。坂口は倒れ込み、小刀は竜一の足下に転がってきた。竜一は小刀を拾い上げて木陰に投げ捨てた。  今度は、坂口と自分にではなく、坂口だけに向けた言葉を探した。 「馬鹿なんて言って、すまなかった。お前は馬鹿でもねえし、そんな、切った張ったするような人間じゃないはずだ」  自分の言葉に特別な魔力があるなんて、これっぽっちも思わない。実際、倒れ込んだ坂口は恨みがましそうに竜一を見上げて鋭く言い返した。 「お前に俺の何がわかるってんだ!」  それでも、坂口を知っている人間は辻だけではないと言わなければならない。 「何考えてるかなんて、わかんねぇよ。でも、お前の名前は、知ってる。お前の名前は、坂口紹太。人と人を太く結びつける……」  辻がはっと目を見張った。 「……町の要になる人間になる」 「やめてくれ!」  坂口はかぶりをふって耳をふさいだ。  勝手に名付けられて、勝手に意味づけられて、逆らわない人間などいない。それでも人は意味を見いだしてしまう。そしてそれに苦しむ。  竜一と辻は自然とひざを突き、双方から坂口の肩を抱いた。青白い顔には微かに赤みが戻り、つりあがっていた目は、潤んでいた。頭を抱え込み、途切れ途切れにつぶやいた。 「俺は……そんな風に……辻……く……みてぇに、なれねぇよ……」  坂口は自分に名付けられた意味を辻の姿に見いだしていたのか。それが、坂口だけに見える天使、なのか。  辻がばしんと坂口の背中をたたいた。 「なるように、なるんだよ!」  坂口は二人の腕の中で深い息をついた。  辻は「人を救う人間」である前に「人を救いたいと願う人間」になった。坂口も何かしら、そうなるのだろう。  そうすると、竜一はなにになるのか。まぁ辻がなるようになるというのだから、なにかになるんだろう。  三人ともすぐにアパートに戻る気にはなれず、石段に座ってぼんやり何もない海を眺めた。  時間の感覚などほとんどなくなっていたが、夜の気配が濃くなっているのは、ぐっと気温が下がってきたのでわかる。  不意に坂口が立ち上がって空を見上げた。 「あ、雪……」  空からはらはらと粉雪が降ってきた。街灯に照らされて白く輝きながら舞い踊る。 「神楽ないんだったら、帰る」  何も起こらなかったかのように、坂口は一人でアパートに帰っていった。  事実、何も変わっていない。竜一と辻は神社が燃えるのを止めただけだ。  坂口の中で相変わらず辻は天使で、竜一は裏切り者の悪魔で、世界は武器を持たないとやっていけないほど敵だらけの暴力に満ちた空間なのかもしれない。それはそれで、坂口の“本当”なのだから、仕方がない。竜一も辻も、他者を思い通りに変えることなどできない。されたくもない。  二人とも黙って、坂口を見送った。

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