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第1話

 固い木の皿が割れる音で、僕は我に返った。  現在は、仕事を終えて、『苔庭のイタチ亭』に夕食へと訪れた所である。 「だってそうだろ? たかだかゴブリン五・六体相手に手こずって! 本当に俺らと同じCランクかよ!」  響いてきた声を聞いて、僕はグラスに視線を落とした。中には、山林檎のサイダーが入っている。ノンアルコールカクテルだ。僕は、お酒は、特別な日にしか飲まない。  店主さんがCランクの冒険者達の席へ行くのが見える。僕は頬杖をついてそれを眺めていた。  ――ひと睨み。髭が印象的だ。  冒険者には荒くれ者も多いが、この店が比較的静かに食事を楽しむ事が出来るのは、諍いを収められる店主さんがいるからだろう。イタチの獣人のテオさんだ。この店は、僕の職場にとっても有難いお店である。理由はテオさんが、それとなく冒険者達を導いてくれるからだ。  さて、僕の職場は――冒険者ギルドである。僕は、冒険者ギルドの受付をしている。元々は僕も冒険者だった。だからこの『苔庭のイタチ亭』の店員の一人の事も、一方的に知っている。細剣使いのウィル・アシュレイだ。彼がこの店で働いていると聞いて、僕は実は見に来た。僕も元冒険者だった為、気になったのだ。僕は弓使いだった。僕は人間であるから、兎獣人である彼の事が尚更気になった。獣人の冒険者には実力者も多い。  それが初回であり、その後僕は、気づけば、テオさんの料理の味にも惚れ込んでしまい、この店の常連になってしまった。  なお、一方的ではない顔見知りも働いている。  僕の暮らすギルドの宿舎は、二階建てなのだが、二階をギルドが借り上げている。だが、一階は普通の住人が暮らしている。その一階で暮らしているのが、スカイ・オリーヴだ。  スカイと僕は、宿舎の階段下にある灰皿の前で何度か顔を合わせる内に、話をするようになった。 ギルドの受付は、何かとストレスが溜まる。例えば、『この人のランクでは、この依頼は絶対に達成困難だ』と思うような部類のものを、『俺なら出来る』として、引き受けようとする冒険者が後を絶たない。それを諭すのも僕の仕事なのだが、上手くいかない事が多い。二十三歳の僕の話を、特に年嵩の冒険者は馬鹿にして聞いてくれない。だから僕は煙草に逃げがちだ。  年齢も同じという事も手伝い、煙草を銜えながら、僕はスカイに愚痴る事がある。猫獣人のスカイは、黒い猫耳でしっかりと話を聞いてくれる。一見すれば、不良(ヤンキー)であるが、決して悪い奴では無い。  彼の口からは、専ら店の話が出てくる。最初の頃は、テオさんとウィルの話が多かったが、その後、店では、ノエリオ君が働き始めた為、最近はノエリオ君の話題も多い。ノエリオ・ピノ君は垂れ耳の兎獣人だ。 「ほら、俺の勝ちだ。150リン払えよ、チビピノ!」 「チビって言うな! 俺は身長170cmあるんだからな! チビじゃないんだぞ!」 「耳まで入れれば、だろ? ほら、耳を立てて計ってやろうか」 「あ、あうぅ……強く触るなだぞぉ…………うぅ、覚えてろよー!」  スカイとノエリオ君は、賭けをしていたのか、そんな声が店の奥から小さく響いてきた。この店は、平和だ。僕はメニューへと視線を向けた。お任せでも頼めるが、僕は比較的決まった品を注文する事が多かったりする。  中でもお気に入りは、鶸色鱈(ヒワイロタラ)と虹灯芋のブランダードだ。バゲットと一緒にこれを食べるのが、大体僕の定番である。最初に食べるのだ。僕は淡々と口に運びつつ、ノンアルコールカクテルを飲んでいる。  もう少しすると、この店は非常に混雑する時間帯となる。依頼を達成した後の冒険者達が多く押し寄せるからだ。僕の場合は、受付業務は一人では無いので、今日のように早めに来られる日もある。しかし早く来た場合も、遅く来た場合であっても、僕は大抵、日付が変わる間際まで居座っている。  と、言うのも――僕は常連になってから暫くして、ウィルや、テオさんの料理の他に、もう一つの目的が出来てしまい、店に通うようになったからである。  ……好きな人もまた、ここの常連さんだと気がついてしまったからだ。  好きな人に会いたい一心で、僕はそれまでよりも頻繁に、この店に通うようになった。  僕の好きな人、それはSランク冒険者のシオンである。  Aランクまでであれば、努力と依頼の達成数で、普通の冒険者も到達可能だ。しかし、Sランクは特別である。偉業を成し遂げ無ければ決して認定されない。シオンは、弱冠二十七歳でSランクに認定された凄腕の冒険者だ。  シオンはいつもカウンター席に座る。僕も同じだ。僕達の間には、数脚の椅子があるのみだ。しかしながら、今までの所、僕はシオンと話をした事は一度も無い。いいや、ギルドでは、会話があるのだ。シオンにしか達成困難な依頼が来た場合、僕はシオンを呼び止め、シオンに依頼書を渡している。逆にSランク限定の依頼書を、依頼板(クエストボード)からシオンが手にして、僕のいる受付に持ってくる場合もある。そんな時は、事務的にやり取りをするし――僕は、笑顔を心がけている。  烏の濡れ羽色の髪に、切れ長の瞳をしているシオンは、整った造形と、均整の取れた体躯、長身である事も手伝い、非常にモテている(ギルドで見ている限り)。性格も良い。真摯な人物だと思う。  一方の僕は、非常に平々凡々な人間だ。薄い茶色の髪、同色の瞳。しいて特徴を挙げるならば、痩身と呼ばれる事が多いくらいだろう。僕が冒険者を辞めて受付になったのは、中々筋肉がつかなかったからでもある。弓使いとしてやっていくには、難しかった。  そこを行くとシオンは、大剣を揮い、魔術まで用いる実力派だ。ただでさえ憧れない方が無理なのだが――僕は冒険者時代に、一度彼に助けられてから、ずっと淡い恋心を抱いているのである。叶わない片想いだというのは、よく分かっているのだが。  あの時僕は、三本角鹿に襲われかけていた。その前日、腕を負傷し、アルコールで消毒していた僕は、すっかり失念していたものである。三本角鹿は、アルコールの香りで暴走するという事を。そうなると……三本目の角が卑猥に変化し、三本角鹿は人間を性的に襲う危険な魔物となる。僕は、襲われかけた時、もう終わりだと思った。そこを通りかかったシオンが助けてくれたのである。  ――回想していたその時、店の扉が開く音がした。僕はチラリと視線を向ける。靴の音はしなかった。シオンは音を立てずに歩くと、僕は知っている。そして彼がいつも訪れる時刻でもあった。

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