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第1話
俺には今ちょっとした悩みがある。
「……っ」
痛。まただ。
参考書をめくる、右手の指先。ここ1ヵ月くらいだろうか、時々右手の指先が軽く痺れるように痛む、この症状に俺は悩まされている。今のところ、四六時中痛むというわけではなく、症状が現れるのは右手指先で何かに触れたとき、しかも、別に激痛が走るような種類の痛み方でもなく、いうなればビリっとごく弱い電流が流れるような感覚だ。だから初めは俺も静電気と勘違いしてたのだが、それとは明確に違いそうだということにはすぐに気がついた。誰もが子供の頃にそんなことをして遊んだと思うが、脱力した片手の指先を、もう片方の指でつついてぶるんぶるんさせる、あれ。俺の指は、ひとりでにそんな感じでびくっと跳ね上がるのだ。だからどこかの神経由来の何かだと思うのだが、今のところ特に生活に支障をきたしているわけではないし、わざわざ人に言うことでもないので俺は一人このささやかな症状に静かに耐え、周りに悟られぬよう誤魔化し誤魔化し、日常を過ごしている。なんとも地味に厄介で余計なスパイスが、俺の日常に加わってくれたものだ。
でも俺も、どこかで薄々気がついていた。この謎の症状は、出始めの頃より、ゆるゆると強度、頻度とも増してきていることに。そしてもう既に割と、今はこれであまり困っていないが、これ以上悪化されてはまずいところまで来ているということに。俺右利きだし。
ペンを持って字を書くことは仕方ないとして、紙に触る度に指先が痛んでいてはとても勉強にならないので、参考書やノートのページはなるべく右手ではめくらないことに決めた。
こうして少しずつ、触れられないものが増えていくんだ。
症状が出始めてから初めて、段々と自分が蝕まれていくことに思いが至り、俺の中にもさすがに小さな焦りが生まれた。
二ツ木次 。
そんな名前の通りに俺は生きてきたように思う。
子どもの頃から委員長ではなく副委員長、キャプテンではなく副キャプテンを務め、成績も学年トップはさすがに取れないが二位にならなれる、学年一のイケメンではないがみんなの二推しくらいの位置。俺が持っているのってそういう中途半端なカリスマ性。
トップにはなれないから。そうなのかもしれないが、それ以上に、俺はナンバーツーになることを「選んで」きたような気がする。ナンバーツーというのは実はトップ以上においしい、というのが、17年の二番手人生を通して俺が導き出した結論である。大袈裟な肩書ほどの苦労もなければ、正リーダーほどの重責もないが、それでいてそれなりの人望も得られる。
随分打算的だな、と時々は自分を軽蔑する。圧倒的な魅力はないまでも自分が正直、「それなりに好かれている」「隠れた人気がある」程度ではあることを自覚している身としては、慕ってくれている皆に申し訳ないような気になる。
「最上くんもいいけどぉ~、私は二ツ木くんも地味に好きだな!」「わかる!最上くんほどの華やかさはないけど二ツ木くんって、よく見るとまあまあ可愛い顔してるよね」
そう言ってくれる女子たち、ごめんな。俺は本当は、あいつとツートップのように並べてもらうほどの器じゃないんだ。みんなが思うよりも俺は、心の汚い人間なんだよ……。
あ、あいつというのは、最上一 というのは、隣の2年1組にいる、学年の有名人である。こうして周囲からは最上か、二ツ木か、という扱いを受けているが、2組の俺は彼とろくに話したことはなく、本人同士にこれといった交流はないのである。
それに周りの評価はどうあれ、俺は最上と自分との明確な差にちゃんと気づいていた。どんな場面においてもサブ、二番手ばかりを極めてきた俺とは対照的に、最上は正真正銘人の上に、ヒエラルキーの頂点に立ってきた男だ。小中学校時代はキャプテンやら委員長やら生徒会長やらを次々と務め、高校生になった今も成績はいつもトップ、容姿だって文句なしに学年一のイケメンである。
接点もない俺たちを勝手にセット扱いしている周囲には推し量れようもないだろうが、俺と最上の間には永遠に埋まりはしない決定的な何かがある。イチバンになるべく生まれ、育ってきた根っからのエリート体質と、ナンバーツーのプロの間の距離は、実は計り知れないほどのものなのである。
だからといって最上への嫉妬や羨ましさも俺にはない。俺はトップに立つよりひっそりと参謀ポジションに回る方が性に合っているのである。今後俺が最上と関わることもないだろう。
……そう、思っていたのに。変わらない日常というのは、いとも簡単に壊されるものなのである。
「二ツ木次はいるか」
自分の名を呼ぶ声に反射的に顔を上げ、誰かと思って教室の入り口を見れば、こともあろうにあいつが??最上一が立っているではないか。
なんでこいつが2組に、というか俺に何の用があって??
警戒心が先に立ち、思わずぐるぐるといろんなことを考えて腰を上げずにいると、俺に声が届いていないと思ったのか、2~3人のクラスメイトが俺の席まで俺を呼びに来ようとする。最上と親しげに話していたところを見て、ああ最上はもちろんうちのクラスにも仲の良い奴がいるんだな、とぼんやり思う。有名人である彼は、優等生であるのみならず社交的で友達が多く、また女子からもたいへんモテている。
と、まあ、わざわざ呼びに来てもらうには及ばないから、クラスメイトがこちらに向かってくるより先に、俺は席を立ち、そして最上と初めて対峙した。
最上には及ばないまでも、俺だってそこそこの有名人だ。言葉を交わしたことはなくても、最上ももちろん俺を認識している。だから初めて話す俺を前にしても奴は動じぬ。と、いうか、彼のコミュ力をもってして動じるはずも最初からないのだが。買い被られ過ぎているが本当は凡人の俺は、こういう時見栄を張りたい。こちらも努めて最上になどさして興味のない振りをする。
「うちのクラスに来るなんて珍しいじゃん。何の用?」
と俺は聞く。こんなところでまで駆け引きをしなければいけないとは、最上のおおらかさに比べて、俺はなんと器が小さいのだろうと思いながら。
と、いうか、こいつめっちゃ綺麗な顔してんなー。
最上がイケメンだということはもちろん知っていたが、近くでまじまじと見てみると、目力あふれるその華やかな顔立ちには、男の俺でもちょっと感心してしまう。俺より僅かに背の高い最上の顔を見上げ、思わず一瞬見入ると、彼は怪訝そうな顔をして俺の顔の前に何かを突き付けた。
「これ、お前のだよな?」
我に返ってその物体を見ると、なるほどそれは俺の予備校のテキストだった。どこで落としたのか、まったく気がつかなかったが、そういえば裏表紙に名前を書いていた。それを偶然拾った最上が届けに来てくれたということか。
偶然にしては出来過ぎている。落とし物をたまたま拾ったのが、学年一の人気者だとは。いや、これは単なる最上の親切心だ。分かっている、分かっているけど
「お前、新葉 セミナー行ってんのな」
その言葉を聞いた途端、ほとんど反射的に、僅かな敵意を込めた目を最上に向けてしまったことに気づき、罪悪感と恥に俺は目を伏せた。
それは俺の通う予備校の名前だった。ノリの良さと社交性で地位を確立している最上とは逆に、(結果としてそうなっただけかもしれないが)俺は孤高キャラで通している。だから予備校だって、同じ高校の者が通っていないところを選んだのである。
予備校がそういうところだということを最上にだけは指摘されたくなかったのだ。本当は凡人の癖に、偉そうに人と違う予備校に行きやがって。――もちろん最上がそんなことを思うはずがない。これはただの俺の自意識過剰なのだ。そうと分かっているから、余計に俺の苛立ちは募ったのだ――。
俺のおかしな態度に、最上が気づかないはずもなく。最上の目が、僅かに泳いだのが分かった。
あ、俺今学園の王子様を動揺させているぞ。
場違いにもそんなことが頭を過ったが、いけないいけない、何はともあれ拾ってくれたテキストを受け取らなければ、と思い直し、俺は何とも言えない気まずい空気を裂いて
「……ああ。わざわざ悪いな。ありがとう」
と最上が持つテキストに手を伸ばした。
そうしないように気を付けていたのに、こんな時に限って、右手を――。
「ぁあ痛っ!」
指先がテキストに触れた瞬間、あの電流がこれまでになく強く流れた。
なんで、よりによって今。なんで。今までこんなにひどかったことないのに、なんで。
最上の目に、さっき以上の動揺が浮かんだ。
せっかく破った重たい空気が、また二人の間に流れる。
「悪い」
反射的に出たのであろう謝罪の言葉を聞きながら、俺は僅かに乱れた呼吸を整える。最上に悟られないようにしたが、もう無理だ、隠し通すなんて無理がある。
「……手、怪我でもしてたのか?」
「……違う。そんなんじゃない」
「だったら……」
「黙れ!」
咄嗟に言ってしまった後で、まずい、と思わず一歩後ずさる。
レアな俺の感情的な声に、数人のクラスメイトがちらちらとこちらを振り返っていたが、教室にいた大半の者には気づかれていない。こちらを見ている奴らにも、俺たちの会話の内容までは聞こえていなかっただろう。そのことにとりあえず安堵する。折角ここまで隠し通してきたのだから……。
ふーっと荒い呼吸を一息吐き、一度離れた最上との距離を再び詰め、痛まぬ方の左手で奴の腕を掴む。先ほどあれほど惚れ惚れした美しい顔だが、今やそんなことを気にする余裕もない。自分の顔を最上の耳元に寄せ、思い切り伏せたので彼の肩に息がかかるほどだったが、それも今は気にしている時ではないだろう。
「……いいから、とにかく指のことは、誰にも言わないで……」
何とも情けない頼みである。
初絡みの相手にこんな弱みを見せるとは、本来俺のプライドが許すはずもないことである。
それを最上も感じ取ってくれたのだろう。俺の左腕は優しく押し戻され、俺たちはまた元のように正面に向き合う。
「わーったわーったよ。俺とお前、二人だけの秘密ってやつにしといてやるからさ」
不敵な笑み、とは、ちょっと違うか。不思議な魅力のある笑顔を残して、彼は俺の前から去った。
ああ。こいつが人を惹きつける理由が、今ちゃんと分かった気がする。なんて、またしても場違いな感想を抱いた。
短時間でこれほどまでに色々なことが起こり、俺の心は一気にズタズタになった。今の心境を一言で表すなら、自己嫌悪。本当にそれに尽きる。取り返したテキストの表紙を見つめていると、みじめな気持ちが募った。
後になって落ち着いて考えてみれば、親切にも落とし物を届けてくれた相手に対して、俺の態度のなんと失礼だったことか。きちんと詫びたいが、最上とまともに関わることは、当分ないだろう。
と、思っていたのだが。最大の秘密を共有するという、最上は言ってみれば俺にとってある意味特別な存在になってしまったのだ。何の関係も持たずに、済むわけはなかった。
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