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第1話

 高校1年生の松井由樹(マツイユキ)は、小雨の降る中、傘もささずに全速力で駅まで走っていた。  目指す電車は、7時22分発。  ちらりと横目で確認した広場の時計は、7時20分。  あと、2分で階段を駆け上がり、改札を抜け、ホームまでたどり着かなくてはならない。  ここ2、3日で急に朝晩が冷え込むようになった。  窓を全開にして寝ていたせいか、どうも朝からお腹の調子が良くない。  同じように腹を壊した父親とトイレを取り合ったせいで、すっかり遅くなってしまった。  ホームを見下ろすと、すでに電車が停まっている。  由樹は、タイムを図ったら相当な記録が出てるんじゃなかろうか?と自分でもほれぼれするような見事なラストスパートで、階段を転がるように駆け下りると、なんとか無事に車上の人となった。  この電車に乗り遅れると学校に遅刻するという訳ではない。  このあとの電車でも、そのまたあとの電車でも十分間に合う。  それにも関わらず、なぜ、こんなにも必死になっていたのか?  奥の連結部に目をやると、予想通り、いかにも仕事の出来そうな27、8歳の男の姿があった。  今朝は、いつもにも増して、大人の男の何とも言えない色香が匂い立っていて、思わず見とれてしまう。  ――今日も、素敵だ! 格好いい!  童顔で女の子のようだと揶揄われる自分とは違う、適度に鍛えられた体に、知性がにじみ出た理知的な整った顔つき。  身に着けているスーツも、小脇に抱えているビジネスバッグも、一体どこで手に入れるのかと不思議なほど、お洒落でセンスがよい。  話したことはないし何の根拠もないけど、話題も豊富な話し上手で、仕事も出来て、そのうえ性格もよく、人望も厚いに違いない。  由樹の理想を余すことなく体現した夢のような人物。  それが、彼だった。  高校生ともなると、「そんなヤツいねーよ、もしいたとしても、フリーのはずがない」とか「妄想乙」と冷静な判断ができそうなものだが、如何せん、由樹には経験がなかった。  何を隠そう、これが、由樹の初恋だった。  比較的、ゆとりのある車内を奥に進み、不自然な動きをしなくとも彼の姿を眺めることのできる絶好の観覧ポイントに体を滑らせた。  告白や話しかけて知り合いになるなど、個人的な関わりをもつ気はない。  そもそも、人を好きになったり、付き合った経験のない由樹には、この先の展開なんて想像することすら難しい。  彼の姿をひっそりと眺め、胸の高まりに身を任せるのが、由樹にできる精一杯で、それ以上は望んでいないし、彼が降車する5駅間を同一空間で過ごせるだけで幸せだった。  そんないつもの日常となるはずが、今朝は様子が違った。  電車が次の駅に到着すると、ガヤガヤとホームが騒がしい。  ――何だろう?  不思議に思い目をやると、遠足なのだろう、リュックを背負った赤白帽の集団が陣取っていた。  月曜の朝に、げんなりする光景だった。  通常ならば、「自分の車両に乗り込んでくるなっ! 隣の車両に行けっ!」と念を送り、警戒するところだが、頭の中がピンク色の由樹にはそこまで思考が及ばない。  なだれ込むように車両に乗り込んだ4クラス分の集団に巻き込まれ、一番人口密度が高くて身動きが取れない場所に追いやられてしまった。  電車に乗り慣れない子供たちは、自分たちが周りの乗客の迷惑になると思い至らないようで、口々に混み合う車内の文句を言いながら傍若無人に振る舞っている。    ――痛っ!  後ろの小学生のリュックの金具が、腰に突き刺さった。  なんだよ、もう!と、金具を避けるために手を後ろに回して身をよじると、ちょうど掌に柔らかなものが当たった。  ――何だろう?  その時、電車がカーブにさしかかり、ズササっと後方からの容赦ない重みと圧迫で、掌を外側に向けた状態のまま柔らかなものに押し付ける形で固定され、文字通り身動き取れない状態になってしまう。  体の向きを変えることも、手を引っ込めることすらできない不自然な状態だ。  ――これはなんだろう?  揉み込むように指先を動かして、柔らかな感触の正体を探っていると、ちりちりとよくわからないものが胸に広がった。  それは、例えるなら野生の動物が危険を察知するような、言葉にならない感覚。  なんだかよくわからないけど、嫌な予感がする。  慌てて、指先の動きを止める。  これは、カバンなどの無機物の感触ではない。明らかに体温のある有機物。  人の体の一部分に違いない。問題は、それがどこか……。  高さ的には、下半身。  この柔らかさは、お尻や太ももとは違う。  ということは……股間の例の部分としか考えられない。  右手を腰の後ろに回し、他人のとっても大事な場所に触れ、指先をもぞもぞと動かしている……この状態は、我ながらどう考えても怪しい。  まるで、痴漢のようだ。  ――痴漢っ!?  まるでではない。これでは、正真正銘の痴漢だ。  なんとか、腕を引き抜けないものかと、もぞもぞと身をよじればよじるほど、ますます指先に力が入り、怪しい動きで見知らぬ他人の股間を擦りあげてしまう。  せめて指先を動かさないようにと試みるが、意識すればするほど、掌に汗が滲み、むずむずとしてくる。  力を入れてつっぱっていたせいか、はたまた緊張からか、よりにもよって指先が痙攣しはじめた。  その動きが、バイブレーターも真っ青な匠の技となり股間に小刻みな振動を与える。  ――こんな時に、どうして!!  絶対に笑ったらいけない時に限って、笑いが込み上がってくるのと似ている。  あと、もう少しの辛抱だ。  次の駅に到着すれば、少しは空間が出来て、手を引き抜くことが出来るはず。  それまで、違うことを考えて指先を意識しないようにするしかない。  ――こんなときこそ、彼の姿を眺めて癒されよう  ナイスアイデア!と自画自賛しながら、例の彼を目の端で探すが、姿が見つからない。  さっきまで、あそこにいたはずなのに、後ろの方にいるのだろうか?  ――まさかね。この掌が、彼のイチモツに触れているってことはないよね? あはは……まさか、まさか……  チラリと頭をかすめた考えだったが、間違いないと確信する。  だって、位置的にそうとしか考えられないし、それに何より、目の端に捉えたスーツの柄が彼のものと一致する。  ぶわっと全身が熱く火照り、汗が噴き出てくる。  名前も知らない、話したことすらない憧れの彼なのに、色々な順番をすっ飛ばしていきなり彼の立派なイチモツ(←推定)に掌を押し付けているなんて……。  こんな出会い方はしたくはなかった。  ――どうしよう、どうしようっっ  焦れば焦るほどパニックになり、じっとりと掌に滲んだ汗が憧れの彼の股間の布地を湿らせるのを為すすべもなく、ただじっと耐え忍ぶしかなかったのだった。

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