35 / 42

第35話 失くしたカケラ

爽やかな薫風が、僕の髪を揺らして駆け抜ける。その風に乗って、一匹の白い蝶がヒラヒラと飛んでいく。 僕は、目で蝶を追いかけて、雲一つない青い空を見上げた。 理久に連れられて家に戻った僕を、おじいちゃんは何も言わずに抱きしめてくれた。その懐かしく暖かい手に、僕は静かに涙を流した。 おじいちゃんは、涙が止まるまでずっと背中を撫でてくれて、僕が身体を離すと「食事の前に、先に風呂に入って温まって来なさい」と言って、洗面所まで連れて行ってくれた。洗面所に向かいながら後ろを振り返ると、理久はいつの間にか帰ったらしく、姿が消えていた。 服を脱いで風呂場に入り、懐かしい匂いを吸い込む。懐かしさに安心はするけど、心の中の空洞が埋まることはない。 それを埋めることが出来るのは、祥吾さんだけだ。祥吾さんと暮らした家の風呂場は、祥吾さんが使うボディーソープやシャンプーの匂いが充満していた。祥吾さんが使っているというだけで、同じ物を使った僕の身体が同じ匂いに包まれているというだけで、とても幸せで心が満ち足りていた。 もうここには、祥吾さんを感じることを出来るものが、何もない。今、僕が使ったボディーソープで、微かに僕の身体に残っていたあの家の匂いが消えてしまった。 身体を洗う間も、湯船に浸かっている間も、風呂場から出て身体を拭く間も、僕の涙腺は壊れてしまったのか、涙が次から次に溢れて止まらなかった。 なんとか涙を止めてリビングに向かい、ドアの隙間から中を覗く。 おじいちゃんがキッチンに立って、僕の為に料理を作っている。その後ろ姿に、ドアで顔を隠すようにして言う。 「おじいちゃん…、疲れたから少しだけ寝てもいい?」 「…ああ、いいよ。寝てスッキリしたらご飯にしよう」 「うん…ありがとう」 チラリと僕を見てそう言うと、すぐにまた手を動かし始める。 「ごめんね…」と小さく呟いて、僕は自分の部屋がある二階へと上がって行った。

ともだちにシェアしよう!