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 激しく雨が降っていた。  十二階から見下ろした夜の町は濡れそぼって、いつもは鬱陶しいくらいに大きな存在を見せ付けるくせに、今では妙に矮小に見えた。  爪を真っ赤に塗った裸足の足で、コンクリートの上に立つ。指の先から雨水が滴って遥か彼方の下界へと落ちていくのを、ただ、ぼんやり見ていた。  車のライトなのか部屋の明かりか信号か、もしくは煙草に火をつけた小さな火かもしれない。チカリと何か小さな光が瞬いて、それをきっかけに、飛ぼう、と強く思った。そして思ったと同時に、脆弱な身体は全てのしがらみから放たれ、自由になっていた。  すさまじい風圧が全身を襲う。痛みはあったが、恐怖はなかった。地上からの解放。重力からの解放。この町からの解放。この世からの解放。自分自身からの、解放。生という領域に身を置いては味わうことのできない快楽が、一陣の風のように全身を包んだ。  ああ、僕は死ぬのか、と(あきら)は恍惚の笑みを浮かべる。今この身に溢れる自由という快楽が死ならば、最高に幸せだ。早くその向こう側を見たくて、地面が近づく前に目を閉じた。  ぐしゃり。  頭が潰れた。音は聞こえなかった。痛みも感じなかった。激しく雨が降っている。周囲には誰もいない。静かに、ひっそりと、なんともあっけなく、暁は死んだ。  そう思った瞬間、細い体躯はしなやかな腕に抱き留められている。宙に浮いた足の下には、深い深い闇が広がっていた。 「死ぬの?」  耳元で声がする。鈴を転がすような、とはこのようなことを言うのだろうか。男性のものらしきそれはひどく透明な音なのに、この土砂降りの中でも鮮明に耳に届く。 「どうせ死ぬなら私にくれないか」  何を、と暁は心中で問う。自分は何も持ってはいない。金も、家族も、帰る場所も、帰りを待つ人も。在るのは自分自身という存在だけだ。  声はまるで暁の心中を読み取ったかのように「君そのものがほしいんだ」と笑った。  ほしいのなら持っていけばいい。命でも、身体でも、この心臓でも。暁にはもう全て不要なものだった。 「全部もらうよ。君を」  体が持ち上げられて、屋上のタイルに足がつく。ゆっくりと振り返れば、雨で白く(けぶ)る視界の中、美しい人が妖しく笑んでいる。梳けるように白い肌。長い灰色の髪。そして、血のような赤赤とした瞳。女性とも男性ともつかない中性的な顔立ちだが、目を瞠る長身と声音や骨格で男性であると知れる。 「Good morning,Ciao,ニイハオ、オハヨウ? 生まれ変わった気分はどう?」  言うが早いか、白い手に頬をとられて口づけられていた。抵抗はない。触れるだけの口づけは短く、雨に濡れているはずなのに妙に熱かった。  雨ではないものに湿った音を残して唇が離れていく。間近で血の色の瞳に見据えられて、冷え切った体の中で何かが震えた。その瞬間暁は彼のものになった。 「どうして飛び降りたの?」 「人を殺したんだ」 「心中?」 「いいや。僕を捨てようとしたから殺した。殺したはいいけれど後処理が面倒で、もう死んだほうが楽かなって」 「君はその人を愛していたの?」 「うん。僕を愛してくれる人はみんな愛してる」 「殺して後悔してる?」 「ううん。僕を愛してくれないなら要らない」 「そう。死体は?」 「そのまま。じきに見つかるよ」 「そう。じゃあ消さなきゃね」  彼はセシルと名乗った。セシルは背が高く、顔だけでなく体躯も美しい。背の中ほどまで伸びた髪も、雨に濡れてしっとりと艶を含んでいた。暁はこんなに美しい人をはじめて見た。 「消すの?」 「ああ、消すさ」  二人揃ってびしょ濡れのまま、屋上から屋内へと入る。カーペットを敷き詰めた床にぼたぼたと雨滴が垂れた。  階段を降りて七階へ。薄暗い廊下に二人分の足音だけが響いた。一番奥の部屋。ポケットに入っていた金色の鍵を取り出す。扉を開ければ、かすかに鉄くさい匂いがした。 「くさいね」 「うん。くさい」  入り口から歩いて五歩。ベッドに突き当たる。白を基調に整えられたベッドは、今は真っ赤に染まっていた。  赤い海の中で、男がひとり死んでいた。  暁がつい一時間前まで愛していた男だ。全裸で目を剥いて、腹をぐちゃぐちゃに引き裂かれている。滑稽なことに、ペニスは天を衝いたまま硬直していた。 「ワーオ。随分派手にやったね」 「途中から楽しくなってしまって」 「凶器は?」  ベッドの脇、床に転がったキッチンナイフをつま先で小突く。刃渡り五寸はある。 「普段から持ち歩いてるの? いい趣味してるね」 「そんなわけない」  この男が自分を捨てようとしていることには薄々気づいていた。だからこちらから誘ってこのホテルに連れ込んだ。話によっては、殺すために。 「じゃあ、消そうか」  セシルはサイドボードに置いてあった男の煙草とマッチを手にとると、ひとつを咥えて火を点ける。そして使い終わったマッチを、当然のように男の亡骸の上に放った。火は血の海で一瞬消えかかったが、そこにマッチを箱ごと放り込んだために勢いよく燃え上がる。  人の体を焼く炎の色を、暁はその黒黒とした目で食い入るように眺めていた。ただただ、美しい、と思った。  やがて炎は男の全身を包み、シーツに広がると一気にその勢いを増した。 「行こうか」  セシルに肩を抱かれて部屋を出る。炭素の塊となりつつある、かつて愛したその男に、もはや何の思いもなかった。  遠くで聞こえる消防のベルを聞きながらセシルに手を引かれてひたすら歩き、たどり着いたのは、古いアパートだった。  赤レンガの壁にはところどころ蔦が這っていて、長いこと手入れしていないのだと知れる。それでも造りは大分しっかりしていて、橙色の光でぼんやり照らされたエントランスも小奇麗だった。  セシルはジャケットから銀色の鍵を取り出すと、左手でもてあそびながら、コンクリートの階段を上がっていく。四階まで上りきったときには、雨のせいもあって脚がずっしりと重たかった。 「さあ。お入り」  人気がない廊下の突き当たり。黒い金属製のドアを開ければ、真っ暗な部屋が広がっていた。  部屋がひとつしかない。玄関から続く廊下はキッチンを兼ねていて、コンロ、シンク、食器棚と、必要最低限のものだけが置かれている。そこを通り抜ければリビングなのだが、部屋の中央には大きなベッドが置かれていた。ベッドの横にはサイドテーブルとタイプライター、あとは窓際に小さなダイニングテーブルにスツールがひとつあるだけだった。  壁は真っ白。床と家具は全て黒だった。  いっそ清々しいまでのシンプルさに、思わず呆れ顔をしてしまった。 「ここが私の部屋」  言いながらセシルは服を脱いでいる。闇夜に浮かび上がる体の白さが目に毒だ。ビチャビチャと音をたてて、雨水が床に落ちた。明かりはつけない。黒いカーテンの隙間から入り込む月の光だけが全てだった。 「まずはあたたまろうか」  そう言って壁に向かって歩き出す。暗くてわからなかったが、白い壁の一部がドアになっている。背景と一体化した白い取っ手をひねってやれば、そこは洗面所だった。  後を追って洗面所に入り、セシルに倣って濡れた服を脱ぎ捨てた。貧弱な体が露わになる。風呂場のドアに手をかけたままじっとこっちを見ている視線が、痛い。  ――見られている。コクリ、と喉が鳴った。冷静で淡白な態度を保っているセシルの、血のように赤い瞳だけが獰猛に尖っている。 「おいで」  口調は柔らかいのに、抗えない言葉で命令されたようだった。暁に選択権などはない。引き寄せられるように、近づいていった。  手が届く距離に入るや否や、しなやかな腕の中に閉じ込められる。真っ白な胸に顔を押し付けられて、息が詰まった。白い肌はゾッとするほど冷たかった。するするとした肌触り。まるで陶器のようだった。 「かわいい子だ。アキラ」  またも口付けられる。どこもかしこも冷たいセシルの、舌だけは燃えるように熱かった。 「ふ、んう……」  ただのキスなのに、声が、吐息がもれる。劣情を抑えられなかった。  長い指が背を這う。中央の窪みをなぞられて、ブルリと太股が震えた。  ――もっと。もっと! 求めて強くしがみついたとき、さっと唇が引いていった。見上げれば、セシルは意地の悪い顔で笑んでいた。 「おあずけ。まずは熱いシャワーを浴びよう」  中途半端に昂ぶったまま、風呂に押し込まれた。黒いタイルが四方に敷き詰められた浴室は狭く、浴槽はなかった。熱いお湯を頭から浴びれば、冷えていた指先やつま先がジンジンと痺れた。ああ、生きているのだと実感する。 「私が洗ってあげよう」  壁のフックからぶら下がっている石鹸を手にとり、いやらしい手つきであわ立てる。妖しげなピンク色の泡は、ひどく香りが強かった。  腕、首、胸。つぎつぎに泡でくるまれていく。しなやかな指が皮膚に触れるたび、ザワリと鳥肌がたった。ただ触れているだけなのに、ただ洗っているだけなのに。どんどん快感を引きずり出される。媚薬でも塗りこまれているようだった。  ハァハァと息が荒くなる。腰、太股、下腹部。指は次々に体を侵略していく。だけれど肝心なところには触れてくれない。暁の慎ましい雄はすでに期待に膨らみ始めていた。ク、と喉の奥でセシルが笑う。 「待てのできないイケナイ子には、お仕置きが必要だね」  無意識のうちに暁の手はセシルの股間をまさぐっていた。泡にまみれた手で、その熱棒を何度もこすりあげながら自分の下腹部に摺り寄せて、じっと瞳を見つめる。両手と腹とで擦って慰めれば、それはじわじわと質量を増した。 「いやらしい子だ、アキラ」 「あぁッ」  やわやわと尻をほぐしていた指が、突然そこにつきたてられる。背がのけぞった。まだ指を一本入れられただけなのに、快感が次から次へとあふれ出す。抑えられない。ほしい――セシルが欲しくてたまらなかった。 「あ、あァっ! はや、はやくゥ、もっと、もっとぉ」  カクカクと膝が震えた。セシルのものを扱く速度が速まっていく。擦れば擦るほど、限界など知らないように昂ぶっていった。 「いい顔をするね」  だらしなく開かれた口からは唾液が一筋伝っていた。目がとろんとしてくる。理性など保っていられなかった。 「これからは、私がかわいがってあげよう」  腕をつかまれ、乱暴にひっくり返される。壁に額をこすりつける形になったが、痛みなど感じる余裕はすでになかった。  後ろを振り返ろうすれば、頭をつかまれ、壁にゴリゴリと押し付けられた。 「たくさん感じておくれよ」  ズア、と。指とは比べ物にならない衝撃が腰をつらぬいた。 「――ッッ!」  声にならない声が喉の奥から絞り出される。最初の一突きで暁は達していた。それでも勃ったままの一物の先端から、白濁した粘液が床へとつたっていた。黒いタイルを、ピンクの泡と、真っ白な粘液がまざりあって流れていく。その光景をぼんやり見ながら、暁は声を上げ続けた。 「はぁ、あッ、あ、あ、んんっ」  もどかしいくらいの速度で、しかし確実に好い所を抉っていくその動きは、人をいたぶることに精通したそれと知れる。暁はだらしなく口を半開きにし、頬を薄桃に染めて、その快楽に酔っていた。やわやわと突き上げられながら、首筋を軽く噛まれる。その僅かな刺激さえ、快感に酔った体には毒となる。 「美しいね、アキラ。東洋の美とはなぜこんなにも劣情を煽るのだろう」 「あ、あっ、んぁ……もっと、もっとぉ」  突かれる度に、達しそうになった。こんなにも快楽を引きずり出される交わりは初めてだった。激しく揺さぶられながら、暁は意識を飛ばしていた。  目覚めると、真っ黒なベッドの上に全裸のまま寝ていた。  外はまだ夜だ。セシルはベッドの脇に置かれたダイニングテーブルで何かを飲んでいた。ロックグラスに丸い氷。暁は洋酒を好まないので詳しくは分からないが、ブランデーかウィスキーだろうと思った。 「……貴方は、何者?」  声はかすれきっていた。だるくて手足が動かない。首だけ動かして、セシルの瞳を見つめた。血の色だと思っていた瞳は今は褐色で、柔らかい印象を滲ませている。 「聞きたいの?」 「別に」  この体を求め、快楽を与えてくれるならば何者でもよかった。たとえこの出会いが身を滅ぼすとしても、全てを捨てて身を投げようとしていた暁にはどうでもいいことだ。 「私も。アキラが何者だろうと、関係ないね」  頬を撫でられる。ふわりと強い香りがした。血の匂いに似ている――。そんなことを思いながら、そっと目を閉じた。  まどろみの中で、誰かに口づけられた気がした。 セシルだと思った。しかし今日殺した男かもしれないとも思った。

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