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 自分より背丈の高いセシルの体を抱えて、どう家へたどり着いたのかは全く覚えていない。部屋は薄闇に沈んでいる。  この部屋で、ともに過ごした。部屋の中央に据えられた寝台で何度も愛し合った。冷たい床の上で血を吸われた。壁際のテーブルで彼の作った食事を味わった。共に朝日に目を細めた。口づけを交わした。ただただ抱き締め合った。  こんなにも彼はこの部屋にいたのに、暁の中でセシルが消えていく。失われていく。  その前にひとつにならなければならない。  幸いにして獲物は玄関先の物置にあった。  暁は一日と半日かけてセシルの体を解体した。流れ出た血は全てすすり、臓物を洗い、肉と骨を引き離した。  その肉と臓物を煮込んで食べた。  骨を綺麗に清め、抱いて寝た。毎晩その白に語りかけた。体が疼けば、彼の雄芯に似た大きさの骨を選び、己の後孔に突き立てた。  何日が経ったか分からない。暁は独りだった。  何をしても彼が手に入らない。肉を食べても、血をすすっても、骨を抱いても、彼はどこにもいない。 「セシル」  寝台に伏せて、名前を呼ぶ。傍らに据えた頭蓋は応えない。 「セシル……」  敷布はひんやりと冷え切っていた。  セシルは帰ってこない。何をしても取り戻せない。彼の記憶が――姿が、声が、熱が、あの泣き出したくなるような至福が失われてしまう。 「セシル、セシル………セシル……」  会いたい。  あの声で名前を呼んでほしい。あの腕に抱き締められたい。あの唇で口づけてほしい。あの熱で貫いてほしい。  彼の姿を求めて、暁はふらふらと家を出た。  幽鬼のような暁の容貌に、人々はぎょっとして道を開けた。瞳は虚空を見つめ、渇いた唇は頻りにうわ言を呟く。もはや夢想に生きていた。目の前の現実世界は彼に何の影響も及ぼしはしなかった。  街の片隅。街路樹の下、歩道脇の長椅子、喫茶店のテラス。そこにセシルがいる気がした。いつも隣を歩いている気もした。  名前を呼べば返事をしてくれる気がした。手を差し出せば握り返してくれる気がした。  もうこの世のどこにもセシルはいない。暁をただひとり、本当に愛してくれた人。暁の全てを奪い去り、全てを与えてくれた人。あの温もりはどこにもない。本当は分かっていた。だが心がそれについていかない。絶対に追い付かない影を追いかけて、暁は街をさまよった。  強い風が吹く。地面に積もった雪が舞い上がり、視界が真っ白に鎖される。  暁はその中に彼を見た。  風になびく、長い灰色の髪。細い体躯。血のように紅い瞳。美しい人は美しく微笑む。 『暁』  名前を呼ぶ声がする。手が差し出され、暁は駆け出していた。  風が止む。道の中央を頼りない足取りで駆ける暁の真横に、路面電車の深緑色が迫る。誰かが叫んだ。  暁の小さな体は紙切れのように宙を舞っていた。  ああ、と暁は呟いた。少なくとも呟いたと思った。本当に声になったかどうかは定かではない。ひどく体が軽かった。生という領域に身を置いては味わうことのできない快楽が、一陣の風のように全身を包む。  暁が最後にその瞳で見たものは、己の左手だった。その薬指に嵌められた白金。彼がこの世にいた証。彼が自分を愛した証。深紅に滲む世界の中で、ただそれだけが眩かった。  ぐしゃり。  頭が潰れた。音は聞こえなかった。痛みも感じなかった。  潰れた脳の中で彼が微笑む。美しい人。白磁の頬。血の色の瞳。真赤な唇が囁いた。 「死ぬの?」 「死ぬなら私にくれないか」 「君の全てがほしいんだ」  もうとっくに全て貴方のものだよ。早く僕を連れていって。  そう囁けば、彼は子どものように無邪気な顔で笑った。  安生暁は二十余年の短い生涯を異国の地で閉じた。美しい雪の日であった。  黒とも赤ともつかない液体が、雪に覆われた石畳にじわりじわりと広がっていく。それはまるで人の影が寄り添っているようであったと、目撃者のひとりは後に語る。 了

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