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 パンの焼ける匂いで目が覚めた。西洋の人々はこういうところに家庭を感じたりするのだろうか。無性に味噌の香りが恋しくなった。  部屋の中央を占める寝台の上で体を起こす。ひどく体が重く、頭や瞼や色々なところが痛んだ。だが気分はひどくすっきりしている。 「やあ、おはよう暁」  壁一枚で仕切られただけのキッチンからセシルが顔を覗かせる。彼も起きて間もないらしく、珍しく灰色の長い髪には僅かに寝癖がついていた。普段見せない、気を弛めた姿に思わず笑みがこぼれる。 「おはよう。パンを焼いているの?」 「ああ、昨日買ってきたものを温めているんだ。卵も焼いたから一緒に食べよう」  朝起きたら朝食が出来ていて。向かい合って朝食を食べ。当たり前のようにセシルがいる。  ああ、これを幸せと呼ぶのだと。心から思えた。 「これからどうしようかなあ」  トマトで煮た豆を冷ましながら、ぼんやりと呟く。向かいに座ったセシルは卵を乗せたトーストにかじりつくところで、そういえば彼が暁の前で食事をしているところは珍しいなと気づく。暁の血があれば彼は生きられるため、食事の必要性は普通の人よりも薄いらしい。 「大学にはもう行けないし、行く価値も分からないんだ」  元より学術的な意欲のために通っていたわけではなかった。莫大な額の遺産が手元にあったことと、何か社会的に立場を持ちたかったというだけの理由だ。いや、心のどこかに、学歴を身に着けてそれなりの職業につけば、この国において父と邂逅できる機会が持てるかもしれないという淡い期待も、あったのかもしれない。今はそれらも必要性を感じない。ならば、面倒な男がいる以上あそこへ戻るという選択肢はなかった。 「何か仕事をしようかな」 「まあ、ゆっくり考えるといいさ」  ゆっくり、か。豆を口に含んで転がし、ふとある考えに思い至った。時間がある、金がある。ならば。 「一度日本に帰ろうかな」  特に待っている人もなければ帰る家もないが、今は向こうも冬だ。この国も劣らないが、日本の冬は美しい。雪化粧を施した白梅を、セシルにも見せたいと思った。 「ああ、いいかもしれないね。是非私も同行させてくれ」 「もちろん」 「君の生まれ育った場所を、この目で見たい」  したいことは悔いなくするといい。そう言ってセシルは今度こそトーストにかじりついた。唇の端に卵の欠片がついているのがおかしかった。  底の厚い靴がずぼりと雪に埋まる。柔らかい感触に戸惑いながらセシルの背を追いかけた。  今から出版社に原稿を届けに行くところだという。帰りに買い物でもしようと言われ同行したが、暁は外套のフードを頭からすっぽりと被っていた。暁は昨日父を殺したのだ。以前葬った新聞記者の男とは違う。立場と名声のある人物であるし、更に昼間にその側近に姿を見られている。用心するに越したことはない。  セシルも人気の少ない道を選んでいるようで、道中に人とすれ違うことはほとんどなかった。  街は何もかもが白く染まっていた。真昼の鈍い光ですら眩く反射し、目に痛いほどだ。ここで待っていて、と言われ、暁は建物と建物の間に身を潜めた。白い外套に身を包んだセシルの背が古い石造りの建物の中に消えていく。  ここでセシルは仕事をしていたのか、と新鮮な心地でひび割れた外壁を見上げる。家の外でのセシル。自分以外の誰かと話すセシル。まだ知らない彼がたくさんある。その血を飲めば何もかも知ることができるけれど、できればこうやって自分の目で知っていきたい。きっと彼もそう思うからこそ、暁の故郷を見たいと言ってくれたのだ。 「待たせたね。寒かったろう」  セシルはものの五分で出てきた。そして冷えた暁の手を取ると、大通りのほうへ向かって歩き出す。 「どこへ行くの。あまり人の多いところは……」 「少しだけだよ。大丈夫」  大通りは人で溢れかえっていた。摂氏零度を下回る寒い日であるのに、そこだけは人の熱気でむんむんと暑いくらいだった。老若男女の人込みの中を、セシルに手を引かれて歩く。フードがずれ落ちないように抑えるので必死だった。  すれ違う人々はみな幸せそうな顔をしている。以前は疎ましかったそれらを微笑ましく見ることができる。そのことがささやかに誇らしかった。 「日本ではクリスマスのお祝いはするのかい?」  歩きながらセシルが言う。クリスマス――そういう文化があることは知っているし、日本でも都会の高級ホテルや百貨店などではそれにあやかった催しが行われているが、まだ一般庶民には馴染みが薄い。この国では重要な宗教的行事であるらしいのだが、何をする行事なのかは正直なところよく理解していない。  そういえば街の趣がすっかり変わってきている。あちこちの建物からは色とりどりの幕が下げられ、街路樹は可愛らしい飾りを纏っている。そのクリスマスとやらが近いらしい。この人出はそういうことかと納得した。 「この国では、聖夜は家族と過ごすんだ。今年は一緒に過ごそう」  その言葉に、つないだ手の温かさに、胸がギュウと締め付けられた。  セシルはある店の前で立ち止まると、人目を避けるように暁を背に隠しながら店内へと入っていく。重厚な佇まいの店だ。洒脱な字で書かれた店名を、暁は読むことすらかなわなかった。 「いらっしゃいませ」  照明を落とした落ち着いた店内には硝子のケースがひっそりと並んでいた。中には装飾品や腕時計などが並ぶ。貴金属を扱う店のようだが、けっしてそれらが安いものではないことは暁にも知れた。  セシルは若い女性の店員に近づいていくと、「予約していたものを取りに来たのですが」と慣れた様子で声をかける。 「お待ちしておりました、ウォルトン様」  耳慣れないその名がセシルの姓であることに気づくまでしばらくかかった。気にしたこともなかったが、そんなことも知らなかったのだとかつての自分たちに呆れ返る。しかし、そういえば、暁も己の安生という姓をセシルに告げた記憶がない。些末なことだ。互いが何者であるかなど関係ない。セシルがセシルである、それだけで暁には全てを捧げる価値があるのだ。  店員はカウンターの抽斗から小さな箱を取り出すと、小さな紙袋に入れてセシルに手渡した。手のひらに収まってしまうほどの小さな箱だが、鮮やかな緋の布地で梱包され、それがただならぬ品であることが窺い知れる。会計は既に済ませてあるらしい。セシルは軽く礼を述べると、そのまま踵を返す。暁もその背に続いた。 「これは君に用意したものだよ、暁」  人込みを抜けて閑散とした並木道に出たところで、セシルからその小箱を手渡された。街路樹の下に佇んだ暁は瞠目する。まさか、あのように格式の高い店で購ったものが自分への贈り物だなんて。 「クリスマスには大切な人に贈り物をするんだよ。ああ、知らなかったのだから君は気にしなくていい。私がただ、君に贈りたいだけだから」  そう言って微笑むセシルの顔を見上げる。美しい人。灰色の髪は雪の白に今にも溶けてしまいそうなほど儚いのに、琥珀色の瞳はひどく強く暁を見据えてくる。こんなに美しい人が自分のために、選んでくれた品だ。そう思えば、小箱を握る指先がじんわりと熱くなった。 「開けて……いい?」 「本当は当日まで待つものなのだけれど、私も早く君の喜ぶ顔が見たい。お開け」  苦笑するセシルに促され、そっと飾り紐を解く。緋の包みを開けば、中から更に布張りの箱が出てくる。手元に熱い視線を感じながら、蓋と思しきところをつまみ上げる。瞬間、チカリと瞬いた光が目に刺さった。 「……指輪……?」  それは細身の指輪だった。白金で出来ているようで、内側には小さく石が埋め込まれている。セシルはそれを静かに箱から取り出すと、茫然としている暁の手を取り、左手の薬指にそうっと差し込む。  それはまるで儀式だった。暁をセシルの許に繋ぎ止める枷のようでもあり、セシルという人を暁の許に留めるための拠り所のようでもある。真白い景色の中、その雪よりも白い暁の指に、その指輪ははじめから皮膚の一部であったかのように馴染んでいた。  西洋の文化に馴染みのない暁には指輪を贈ることの意味は分からないが、これが神聖な儀式であることは窺い知れた。 「うん。よく似合う」  絶対に安価な代物ではない。暁は礼を言うべきなのだろう。だが、自分の手をとって微笑むセシルがあまりに綺麗で、言葉は容易く失われた。  結っていない長い灰色の髪が風に舞っていた。粉雪が薄い色の睫毛に乗っていた。寒さに頬が少し赤くなっていた。そのセシルの姿は、一枚の絵画のように暁の脳裏に刻まれた。 「暁。君は永遠に私のものになった。それと同時に私の未来も全て君のものだ」  ずっと共に。  額と額を合わせて囁かれた言葉に、涙が出そうになった。  彼に出会うまで随分と遠回りをした。愛を欲して、居場所を求めて、彷徨い歩いてきた。やっと手に入れた、自らの居場所。もう絶対に離さない。そっと重なり合ったふたつの手に光る白銀が眩しかった。  こんなに幸福で良いのかと、目を細める。暁はこれ以上ないほどの禍福の中にあった。暁だけではない。セシルもまた、守るべき存在を手に入れて満たされていた。  互いしか見えていなかった。互いの存在だけで世界が回っていた。それゆえ気づかなかった。大通りを抜けたときからずっと彼らを見据える鋭い視線に。幸福の真っただ中にあるこの瞬間、背後に迫る影に。 「あき……」  そのときセシルが何を言いかけたのかは永遠に分からない。不自然に途切れた言葉を不思議に思って顔を上げたそのときには、セシルの胸から白銀が生えていた。 「あ……?」  白い服に身を包んだセシルの胸に、紅が滲む。  暁を人ならざるものに変え、そして何よりも深い陶酔を与えるセシルの血潮。その源泉たる心臓を、白銀の両刃が深く深く貫いていた。 「アキラ。君を救ってあげる」  セシルの背から声がする。聞きなれた声だ。 「あ、き……」  目を見開いたまま、セシルの体が倒れ込んでくる。それを受け止めた暁もまた背後に尻をついた。抱きとめたセシルの背からは、ナイフと呼ぶには随分長い、両刃の(つるぎ)が生えている。こんなものを、どこで手に入れたというのか。ああ、そういえば彼の家は古くから続く名門なのだ。骨董品として本物の剣くらい、ありそうなものだ。  そんな呑気な考えが頭に浮かぶのは、現実が整理できていないからだ。上手く働かない頭を緩く振って、暁は佇む男を見上げた。かつて学友と呼んだ男がそこにいた。 「こいつが、この悪魔が君を堕落させたんだね。さあ、これで大丈夫。僕とともに行こう」  歪んだ顔で微笑んで、手を差し出す。クラウスはセシルの返り血に塗れていた。 「セシル……?」  愛しい体はぴくりとも動かない。  かつてセシルは言った。『心臓以外への傷は私にとって害ではない』と。心臓。それが彼の命を奪いうる唯一の箇所だった。そのことを背後の男が知っていたはずはない。だが、胸を切り裂いても暁が無事だったこと。それを考え、生物の弱点として本能的にそこを貫いたのかもしれない。 「あき、ら……」  暁の胸に顔を埋めたまま、セシルが呻く。優しい声音だった。 「愛している」  それが彼の最後の言葉となった。  その瞬間、暁はこの世の何もかもが分からなくなった。理解ができなかった。セシルがこの世から失われた。そんなはずはない。永遠に一緒だと言った。未来を与えてくれると言った。なのに、なのに――。 「さあアキラ、こっちに……」  セシルの背から剣を引き抜く。反動で己の掌が傷つくのにも構わず、狂った目で笑う男を突き刺した。悲鳴が迸る。薄汚い鮮血が噴き出す。何もかも、遠い世界のことのようだった。 「セ、セシル……」  いつの間にか雪が降り出していた。真っ白な服を着て真っ赤に染まったセシルの亡骸(からだ)にそっと舞い落ちては、その熱を奪う。  雪の絨毯には(おびただ)しい量の紅が広がっていた。その源。彼の胸へと、顔を埋める。まだ温かい。この雪で冷え切ってしまう前に、彼を救ってあげなくては。  暁は胸の傷からセシルの血潮をすすった。彼の魂が流れ込んでくる。暁への慈しみ、幸福、そんなものが暁の中へ次々と押し寄せては、形を結ぶことなく、弾けて消えた。手に入れたそばから儚く融ける。セシルが、消えていく。 「あ、ああ、セシル、ああ、あああ」  とめどなく溢れる血潮。その一滴一滴がセシルの魂だ。全てが暁のものだ。なのに、どんどん失われていく。奪われていく。ああ。 「あああああああああっ」  白く濁った空に絶叫が迸る。暁の世界は終わりを告げた。

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