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「私の血が薄まってきているのかもしれない」
暁をベッドに降ろしそう言うと、セシルはキッチンから小さなナイフを持ってくる。果物や菓子などを切り分ける際に使う本当に小さなものだが、切れ味は他の包丁と変わらない。それをおもむろに己の白磁の腕に宛がうと、躊躇うことなくさっと横に引く。浮かび上がった一筋の赤に、暁の中で炎が灯る。
「お舐め」
差し出された腕に夢中でむしゃぶりついた。
次々流れてくる赤を舌で舐め取り、それでも足らず傷口に直接吸い付く。強くすすれば頭上から「く、」と押し殺しきれなかった声が漏れた。
血の主成分は鉄だ。どう足掻いても味も匂いも錆のようなそれであるはずなのに、彼の血は何と甘美なのだろう。もしくは暁がそう感じるだけかもしれないが。彼のその生温い体液が喉を通り過ぎるたびに、暁の体は熱くなった。失った血が戻ってくる、体に力が満ちる……。
「う、ふふ……どっちが吸血鬼か分からないね」
額に汗を浮かべ、わずかに息を切らせ、それでも余裕ぶってセシルが笑う。それが嬉しいようでもあり腹立たしいようでもあり、暁は半身を起き上がらせると、白い腕を爪が食い込むほどに強く掴んだ。
既に血潮の噴出は止まり、肉体は癒されつつある。だがもっともっとその赤がほしくて、傷口に歯を立てる。セシルのように鋭利ではないので皮膚を食い破ることはできないが、開いた傷口からはじわりと大量の血潮が滲んだ。
それを舐め取る暁もとうに息が荒い。どうしようもなく興奮していた。下着の中のそれは抗いようのない快楽により硬くそそりたっているのが分かるし、頭の中が真っ赤だ。いつも血を呑んだあとに自分を抱くセシルは、こんな快楽を得ていたのかと驚愕する。
「ふ、……暁……」
まるで餌を貪る飼い犬を愛でるかのように、髪を優しくさらりと撫でられる。その瞬間、暁の中に「セシル」が流れ込んできた。
セシルの心が伝わってくる。その記憶が流れ込んでくる。
セシルの前からは何人もの人が去っていった。息子のあまりの美貌に女としての劣等感を抱き、彼を棄てていった母親。人の生き血をすするという道を外れた生き方に耐えられず、餓死していった同胞。セシルの抱えた闇に耐えられず壊れていった伴侶たち。
愛を知らず、去っていく人たちに期待を持てず。支配することでしか人を留められない、哀しい生き物。それが本当の彼だった。
気づけば暁の頬には一筋の滴が伝っていた。何に涙しているのか自分でも分からない。哀しみの涙である気もするし、セシルという自分にとって無二の存在の核をようやく知れた歓喜ゆえである気もする。
「……『私』を感じたのかい?」
はっとして顔を上げる。多量の血を流し僅かに息を乱したセシルは、変わらず笑んではいたものの、少しだけ困ったように眉を八の字にしていた。そんな顔を見るのは初めてのことで、複雑な感情が胸に去来する。新しい彼を知れたという歓びと、こうあってほしいという像からかけ離れた彼を知ってしまったという落胆と。その比率はぐらぐらとせめぎ合い、暁の心を揺さぶる。
ここ最近のセシルの様子がそれまでと異なっていたのと同じように、自分の中で何かが変わりつつあることになどとうに気づいていた。そのことに対する期待と恐怖も、同じようにせめぎ合っては暁を一喜一憂させる。行き場を失い暴れ狂う心は、しかし、この男の手によって簡単に崩落する。
やんわりと腕を引かれ、起こした体を抱き寄せられる。真っ暗な部屋、溶け込むような黒い寝具の上。脚を投げ出して座った暁と、膝立ちになったセシルと。ふたつの白い体がそっと抱き合う。互いに背中に腕を回し、それぞれの存在を確かめるかのように、初めてのことに戸惑うかのように、どちらも恐る恐るといった感じで。
「暁」
耳元で柔らかく甘い声が弾ける。そのとき暁の背を走ったものは熱を上げるような色欲ではなく、目の前の体に縋りついて咽び泣きたくなるような、果てしない切なさだった。
「血を飲まずとも君を感じる。そうか、お父上とのことが終わってしまったのだね」
終わって「しまった」のだとセシルは言う。それは的確に暁の心中を見抜いているゆえの言葉だった。愛憎に歪んだ関係など、終わらせたほうが良いに決まっている。だけれどそれが暁の全てだった。孤独な暁の、その孤独の源泉である父親。その彼に愛されたい、彼が憎い。そのふたつが、暁の全てだった。それを失った今暁の心には何もない。幾多の男と交わっても満たされることのない劣情に憑りつかれた空の器があるだけだ。
その空間に、セシルがじわりと沁みてくる。
「ああ、暁。君は何て孤独で、憐れで惨めで、醜いのだろう」
以前も似たようなことを言われたが、あのときとは含んでいるものが全く違う。胸がいっぱいで上手く呼吸ができず、ひ、ひ、と情けない息が喉から漏れた。
「私も同じだ。だから君にこんなに心を惹かれる」
セシルの背を抱く手に力がこもる。もっと強く抱き合いたい。体がぴったりと重なり合い、ひとつに溶け合ってしまえばいいのに。
「失ったならば私が与えてあげる。私の愛で君を満たしてあげよう」
暁の世界が崩壊した。
父への憎しみ。空虚な肉欲。母への羨望。生きることへの無為な気怠さ。誰か何かを与えてくれと泣きながらさまよっていた醜悪な生き物は弾き飛んだ。
セシルの胸に顔を押し付け、暁は絶叫した。声を上げて泣くのは、生まれて初めてだった。
「本当は、ただ愛してほしかったんだ」
「生まれてきたことを厭われるのでなく、ただただ母として、父として、僕を見てほしかった」
「なのに、彼は、彼は僕を刺した! 僕は彼にとって家族ではなかった、邪魔だった」
「殺してしまったら愛される機会を、受け入れてもらえる可能性を全て失うと分かっていたのに、父が憎くて止められなかった」
「セシル、セシル。僕を肯定して。貴方しかいないんだ、僕を全てあげるから。僕の全てを受け入れて」
生まれたばかりの子どものように泣きじゃくる。
闇の中に在りながら、より深い闇を探すような二十余年だった。自分を丸ごと塗り潰してくれる漆黒を求めた人生だった。その日々は終わったのだ。
「暁。愛している」
口づけられながら暁は、初めて酒を口にした晩のことを思い出していた。一瞬で我を失ってしまう強い酩酊。それと同じだった。ただただセシルの愛に歓喜する無垢な生き物がそこにいた。
涙が幾筋も頬を滴る。震える唇がうわ言のようにセシルの名を呼ぶ。暁の胸は生涯で一番温かいものに満たされていた。
荒い息遣いと時折漏れる暁の悲鳴。月明りだけが頼りの部屋の中、互いの体も心も食いつくすかのように深く交わう。
「セシル、あ、あぁ、セシ、ル……っ」
暁の腕はセシルの首に巻き付けられ、脚はその背にしがみつき、その体を二度と離すまいと強く強く引き寄せる。セシルは貫いた部分を揺すりながらも、暁の背をしかと抱く。ふたりを隔てる皮膚がもどかしい。もっと深く融け合いたいと、どちらからともなく口づけた。
「ん、ふぅ、んっ」
舌を絡めても唾液をすすっても足りない。もっと、もっと、と体は貪欲に相手を求める。自分の内部でセシルのそれが一層膨らむのを感じながら、暁は涙を零した。頭が真っ白になるような暴力的な快感ではなく。胸の奥が引き攣るような痛みを伴う背徳でもなく。ただただ幸福で満たされる。こんな交わりもあるのだということを、暁は初めて知った。この男と交わるために生まれてきたのかもしれないとすら思えてしまう。それほどに、形容しがたい至福に包まれた。
「暁……」
息を乱し、艶を含んだ声で名を呼ばれれば、ひとたまりもない。腹につくほどに反り返った暁の欲望は、抑えがたい享楽に歓んで透明な涙を流した。
湿った指で前髪をすかれる。セシルの血の色の瞳と、暁の黒檀の瞳が真っすぐに見つめ合う。互いの瞳には互いしか映っていない。セシルには暁さえいればよく、暁にはセシルさえいればよい。排他的な意味合いではなく、彼ひとりで全てが満たされるという情愛からくるものだ。
「セシル、あ、あぁっ、セシル、もっと、もっと僕を奪って」
いっそ彼の体の一部になれたらいいのにとすら思える。
「暁、暁……愛おしい、私の半身」
家族、愛、幸福。そういうものの影をずっと追いかけて生きてきたように思う。自分には縁のないものだと諦めながらも、心の奥底で渇望してきたもの。だがその形は見えない。手にも届かない。誰かの持っているそれの影を、待って、待ってと必死に追いかけてきた。
だがセシルは今目の前にいる。触れられる。自分を見ている。名前を囁いてくれる。この体には彼の血が流れ、彼の体には自分の血が流れている。互いが互いを生かし合い、どちらが欠けても生きられない。何と甘美な共依存だろぅ。ようやく手に入れた、その愛しい体により強くしがみつく。ぐ、とセシルの熱芯がより深く暁の臓腑を穿つ。そのまま心臓を貫かれて死んでしまいたかった。
故郷の裏側の異国の地で、ようやく暁は己の居場所を手に入れたと思った。
セシルはいつものように笑みを浮かべてはいない。ただただ真剣な顔で暁を見下ろす。そしてその細く小さな体の中に欲を放つと、僅かに掠れた声で囁いた。
「暁、君を愛している」
その瞬間に世界中の何処で抱き合うふたりよりも深く、強く、抱き締め合った。
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