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第1話
新幹線の車内は土曜日の最終ということもあり、ひどく混雑していた。空席はほとんどなく、無機物と有機物とが重なり合いノイズを発している。もう三日も降り続いている重い雨が窓にぶつかり、ガラス越しにもその匂いが漂ってくるようだった。
こめかみを窓に寄せると、静けさの薄い膜が身体を覆う。まるでその冬初めて湖に張った氷のように冷たかった。目を閉じるとわずかな息苦しさを覚える。北斗はゆっくりと呼吸をしながら、冷たさに触れる面積を拡げた。
生まれて初めて人を愛した。
人間が独りでしかないことを北斗は知っているし、誰も自分以上に誰かを愛せないということもわかっている。ただ、彼に出会いその認識を蹴散らすほどの熱を知った。彼の名前は羽沢篤史という。
篤史だけが自分を定義する存在だと思ったし、自分は彼と出会うために生きてきたのだと本気で信じた。手に入れるためなら何だってできたし、何をしても構わないと思った。
それだけ北斗が一心に思ったにも関わらず、篤史は北斗をまるで見なかった。それどころか、北斗が最も嫌う性質の男を好きになった。日和佐潤だ。彼のような人間はいつだって無邪気に、無意識に、北斗の欲しいものを手に入れる。不器用だとか、不遇だとか、そんな言葉を盾にして、北斗が苦労してようやく手を掠めるものたちをあっさりと奪っていってしまう。
潤のことが憎かったし、篤史が欲しかった。シンプルな動機で北斗は潤を傷つけた。他に不公平さに抗う手立てを知らなかった。潤を傷つけたことはすぐに篤史に知られてしまい、北斗は愛する彼に侮蔑され、殴られ、二度と顔も見たくないと吐き捨てられた。
あの時、自分の中にある歪みがいっそう酷くなったのがわかった。それは、自分の手では触れられないほど奥深くに入り込み、そして北斗は絶望した。
すぐに大学を辞め、実家のある東北に帰ることを決めた。耐えられなかった。
「――……」
到着のアナウンスが車内に流れ、大きくなったノイズが薄膜を破った。北斗はゆっくりと瞼をあげ、瞬きをした。心臓が凍ったように冷たいのに、火傷が疼くように痛む。
人生最初の記憶は、固い土の上にいくつもの蝉の死骸が転がっている光景だ。騒々しい夏の音に囲まれて、その数を数えている。北斗は三歳だった。子供の頃、とにかくものの数を数えることが癖だったのだ。それはひとつひとつ指差し数えるようなものではない。あの頃用いていたのは、単位面積あたりの数から積分計算をし、そこに誤差項を盛り込むというものだった。数式のことなど考えなくても、頭の中で勝手にその計算が行われてしまう。そしていくつかの数字の集合を得ると、今度はそれを使って数列を組んで遊ぶ。
それは特別なことではなかった。五歳の頃には五桁同士の暗算が瞬時にできたし、古典数学の基礎理論は概念的におおよそ理解していた。ボタンをかけられるようになるとか、箸を使えるようになるとか、そういう類の成長と等しいことだった。
北斗は、生後間もなく放置された孤児である。そのまま施設に引き取られ、十歳になるまでそこで育った。施設には似た境遇の子供たちがたくさんいて、北斗は彼らと同じように育てられたけれど、成長するにつれ能力の差は明確になった。
周囲の人間はみな、北斗を気味悪がり疎んだ。特殊な数学能力のせいだけでなく、著しいコミュニケーション障害を抱えていたせいだ。どんな複雑な計算も一瞬で答えを導き出せるのに、他人を前にするといつもまるで頭が回らなくなった。パニックになり、言葉を発することも、表情をつくることもできない。しまいには眩暈で倒れたり、呼吸できなくなったりしていた。
小学校に入ると少しずつ他人に話しかけられる状況に慣れ始めたものの、ろくに返事もできない北斗は当然のようにひどいいじめにあった。悪意の渦に放り込まれ、悲しみは次第に怒りへと変わった。薄い紙でできたような結束で、組織で、力を均し異端者を弾く。そうすることにしか安堵を見出せない、低次元の生き物。それらが作る世界などほとんど屑だと思っていた。
「……」
車両が減速を始め、心臓が硬化するような違和感が走った。色々な感情が混ざり合う。畏怖と、憂鬱と、苛立ち。ポジティブなものは何もない。
十歳の夏に、北斗は中原という家に養子として引き取られた。
養父である中原典孝(なかはらのりたか)は施設の院長の知人で、彼は北斗の知能テストの結果を院長から聞くと、すぐに養子縁組を決めた。中原は地元で中規模の病院を経営している家系で、養父が今の病院長である。息子が三人いるものの、いずれも学力は平均以下で、焦りを感じた養父は早々に北斗という保険をかけることを決めたのだった。
電車がゆっくりとホームに入り、停車する。乗客がいそいそと降車準備をし、車両を出て行く。北斗はしばらくの間動かずにいたけれど、やがてバッグを手に立ち上がった。ホームには風が吹いていた。強い風で、雨も混じっている。そのせいか、嫌な匂いがした。
「……」
ホームから出て行く白い車体を見送り、バッグを持ち直す。身体を傾けると、改札に向かっていく乗客の波に逆らうひとりの男の姿が目にとまった。圧縮されていた負の感情が空気に触れ、焦げた痕をつくる。
「北斗」
人の波を抜け、北斗に気付いた青年はほっとしたように笑みを浮かべた。中原の次男の隼瀬(はやせ)だ。
「よかった。会えて。おかえり」
隼瀬の成人男性にしては高い声に、揺らぎが一層加わった。中原の三人の息子の中でも、北斗は隼瀬が特別苦手だ。あの夏、この世界にすでに辟易していた北斗を、さらに打ちのめしたのがこの隼瀬だった。緊張に強張る家族の面々のなかで、彼だけが北斗に無邪気に微笑み手を差し出したからだ。
「……何でいんの?」
過去の記憶に胸が疼き、北斗はそれを払拭するように冷たい目で隼瀬を見下ろした。
「何って……迎えに。今日の最終って母さんに聞いたから」
「頼んでない」
「うん、でも、ほら、雨も降ってたから。車、すぐそこに置いてるよ」
ホームの天上の隙間から降る雨を一瞥し、隼瀬は悪意のない表情のまま首をかしげる。
「……」
「北斗?」
「……いい、わかった。どこ」
「……うん、こっち」
北斗は仕方なく、歩き出した隼瀬の後ろに続いた。
「電車、混んでた?」
改札に向かうエスカレーターに乗りながら、隼瀬が北斗を振り返る。少し癖のある細い髪の毛が雨に濡れて曲線を描く。小さな顔と細い首筋が実際以上に隼瀬を華奢に見せた。目も眉も下がり気味で、全体的に隼瀬の印象は頼りない。それは彼の内面をよく表しているのかもしれない。どれを取っても北斗とは正反対だ。そして、子供の頃から変わらない。
「……混んでた」
「連絡しようか、少し迷ったんだ。見つけられてよかった。疲れたでしょ?」
北斗は隼瀬の笑みから目を逸らし、曖昧に頷いた。
「北斗がこっちに戻ってくるって聞いたから、練習してたんだよ」
「……何を」
「車。四月に免許取ったばっかりで、まだ若葉マークだけど」
隼瀬は今年三度目の医大受験に失敗し、地元の私立大の商学部に入学したばかりだ。幼い頃から当然のように義務付けられていた医学部入学が破綻し、本人なりに落ち込んだらしいけれど、それは誰が見ても当然の結果だった。隼瀬の学力で入れる医学部など世界中どこにもないだろう。養父も彼を責めなかった。
隼瀬の生き方は北斗とはまるで違う。安全な浅瀬を手探りで進むような単純さだ。華奢な身体で、綺麗な顔で、薄い紙片で深く傷つく柔らかな心で、それを当然のことにする。少し、潤と似ている。
必死に脆い強さを抱えて生きてきた北斗は、隼瀬や潤が持つ弱さを嫌う。それを美しいだなんて思わない。狂っているのは自分の方だということは知っている。でも、人間としてできそこないだとわかっていても、それでも死んでしまいたいとは思えなかったから。
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