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第2話
頬を垂れた雫は一際重かった。不純物の割合が多いのか、単に気分のせいでそう感じるのかは判断ができない。身体は相変わらずネガティブな感情で充満していて、思考が濁っている。満員の新幹線での移動による疲れも影響しているかもしれない。
車は駅から五分ほど歩いたパーキングに停められていた。隼瀬がまだ慣れない仕草でロックを解除する。暗がりでも新車であることがわかるメタリックカラーのアウディが、音と共にライトを点滅させる。初心者に与えるにしてはずいぶんと大仰な車種だ。まず間違いなく養父が選んだものだろう。
「まだ、慣れてなくて」
肩に付着した雨滴を払いながら、隼瀬が苦く笑う。北斗は無言でボストンバッグを後部座席に放り込み、助手席に座った。車内は外見以上に新しさが充満している。運転席に回った隼瀬がエンジンをかけると、振動が平衡を崩し、それで空間はいくらかまともになったような気がした。
「え……っと……」
ぎこちない手がワイパーのスイッチを入れる。緊張と不安とが空気を伝播して、北斗にまで届いていた。雨の夜間というシチュエーションでの運転が初めてなのかもしれない。
「……と、出すね」
ギアに手をかけた隼瀬の声が強張る。北斗は呆れて、溜息をつきながらドアのロックを解除した。
「北斗?」
「代わる」
「え?」
隼瀬は北斗の言葉の意味をすぐに理解できなかったようで、数回瞬きをした。ギアに置かれた隼瀬の腕を上げ、一旦車を出て運転席へと回り込む。ウィンドウを叩くと、隼瀬がドアを開けて困惑気味に北斗を見上げた。
「俺が運転する。どいて」
「え、いいよ。疲れてるでしょう?」
「ワイパー動かしたことあんの?」
「……はじめてだけど」
「帰って早々事故りたくないんだけど」
語気を強めると、隼瀬は諦めた様子で席を空けた。ここまでは来られたのだから、どうにかなるのかもしれないけれど、あのまま助手席でじっとしていることに耐えられそうもなかった。
「あの……ごめん」
助手席に移った隼瀬がシートベルトを締めながら申し訳なさそうに言った。
「練習したのは本当だけど……夜は、あんまり」
「だから、迎えなんかいらなかったんだよ」
「……行きたかったんだよ、おれが」
しゅんとして俯く隼瀬を無視して、北斗はギアを入れた。ナビゲーションはオフにして、代わりにラジオを点ける。空気にまるで馴染まないポップスが流れ出し、北斗は車を出した。
「北斗、免許いつ取ったの?」
沈黙に居心地の悪さを感じるのか、隼瀬はなかなか黙らない。北斗は内心で溜息を吐いた。
「何で?」
「慣れてるから」
「別に。ていうか、持ってない」
バックで切り返し、ギアを入れ替えながら答える。入試の後すぐに引越しをしなければならなかったし、大学に入ってからはそんな暇がなかった。そもそも免許に興味もなかった。
「え?」
隼瀬は驚きの声をあげ、北斗の方を向いた。車は清算機の前で停車する。
「駐車券」
「へ?」
「券、どこ」
「あ……、これ」
北斗が無免許だと知って思考が止まったらしい隼瀬は、慌ててダッシュボードから駐車券を取り出し北斗に差し出した。サイドウィンドウを下ろして券を通し、硬貨を数枚押し入れる。
「待って、北斗、やっぱりおれが……」
「オートマくらい免許なくたって動かせる」
「そういう問題じゃないでしょう?」
ウィンドウが再び空間を外界から切り離し、ラジオだけが頼りとなった。
「万一見つかったら大人しく捕まる。あんたは俺が無免なんて知らなかったって言えばいい」
「っそんなのできないよ」
「あんたが事故起こす可能性よりは低いよ」
「でも……」
「うるさいな。ちゃんとできてるだろ」
車は大通りに出て、何事もなく他の車の流れに加わっている。隼瀬は呆れた様子で、けれど、それ以上の言及を諦めたようだった。ここから家までせいぜい三十分ほどだし、余程大規模な検問でもない限りは絶対にばれないという自信が北斗にはあった。高校の頃から何度か無断で養父の車を拝借した経験からである。
「おれ、卒検三回も受けてやっと通ったのに……」
「三回って……要領悪すぎんだよ、昔から」
「うん……北斗は、何でもできるもんね」
車はちょうど赤信号に引っ掛かり、隼瀬の小さな溜息が余韻を残した。ハンドルが急に質を変えたように固く感じられる。
「……嫌味かよ、」
低い呟きは、ラジオから漏れたDJとゲストの笑い声に掻き消された。
少しずつ酸素が薄くなっていくように、息苦しくなる。余計な記憶ばかりが誘起される。アクセルを踏み込むと、歪みが加速する。
もし自分をつくった両親に会えたなら、彼らに怒りの矛先を向けることもできたのかもしれない。けれど北斗にそうすることはできなかった。ただ、自分の異質さを持て余すことしかできないまま、ここまで来た。
深夜の市街は道路の混雑もなく、家にはすんなりと到着した。ガレージの前に車を停めると、隼瀬がダッシュボードからリモコンを取り出しシャッターを上げる。
「――……」
シャッターが上がるのを待ちながら、北斗はハンドルの上で指を組み、目を閉じた。
幼い頃、居場所を求めて彷徨った。どこかにあると信じていた。けれど結局、どんな場所も、空気も、その瞬間のものでしかなかった。定常的なものなど何もなく、心の休まる場所もまた、どこにもない。
「北斗?」
隼瀬の声がして、北斗は組んでいた指をほどき目の焦点が合うのを待った。シャッターはもう上がっている。ガレージには養父の欺瞞の塊である外車が数台停められていた。
中原の家は、まるで古びた時計のようだ。動きを止めることを恐れて、錆び付いて回らなくなった歯車を必死で回している。養父は病院経営を上向かせることに闇雲になっているだけの器の小さい男だし、息子たちは父の期待に応えることができない。全てが空回っている。
それでも、自分はここに帰ってきてしまった。矛盾しているけれど、他にどうすることもできなかった。どうでもいいとやけになったふりをして自分を第三世界に逃がすほどの自己愛もなかった。ただずっと、強さの仮面を被ってきた。
だって、本当に強かったら、こんな仮面はいらなかった。
「大丈夫?」
「……平気だよ」
リアウィンドウのワイパーを動作させ、車をガレージに押し込む。スペースは十分で、切り返しの必要はなかった。
「おれ一回で入れられたためしないよ」
「下手過ぎ」
馬鹿にされているのに隼瀬はあまり気にしない素振りでそうだね、とおかしそうに笑う。隼瀬が笑うたび、身体に錘をひとつずつぶら下げられていくような気分になる。北斗は溜息を吐き、エンジンを切って車から出た。
後部座席からバッグを引き上げ、家の中へ入ろうとすると、ちょうど長兄の諒悟(りょうご)が顔を出した。音に気付いて出てきたのだろう。見てすぐにわかるほど不機嫌な表情を浮かべている。助手席を降りた隼瀬も驚いた様子で息をのんだ。
諒悟もまた出来がよくないけれど、長男のプライドもあったのか、どうにか近県の医大を出て二年前から内科医として養父の病院で働いている。病院を継ぐことに情熱を注ぐ、養父そっくりの息子で、昔から十も年下の北斗を敵視している。
「なんだ、びっくりした。ただいま、諒悟兄さん」
北斗が作り笑いを浮かべると、諒悟はこれ見よがしに溜息をついた。
「ただいまじゃない。こんな時間に帰ってきて迎えの催促か。相変わらずいい身分だな」
「っ兄さん、これはおれが勝手に……」
「隼瀬は黙ってなさい」
「……」
諒悟に睨まれ、隼瀬が押し黙る。北斗は頭を掻き、バッグを地面に放った。諒悟が北斗に対して抱えるコンプレックスは根深く、会うたびに聞かされる嫌味はいつも長い。
「俺、何か気に障るようなことしましたか? 諒悟兄さん」
「自覚がないのか? 勝手に東京の大学受けて出て行ったやつが」
養父はずっと北斗を地元の国立大の医学部に入れることを望んでいた。それを北斗が勝手に反故にし、もっともらしい理由をつけて家を出たのだった。そうして入った大学をたったの三ヶ月で辞めてしまった。養父はこれで北斗を地元の大学に入れられると喜んだけれど、諒悟が快く思ったはずもない。
「それは、悪かったと思ってるよ。だから今度はちゃんと親父の言う通りの大学に入る。一浪なんて珍しくも何ともないし、それでいいだろ?」
「まだ受かったわけでもないだろう。いい加減なこと言うな」
「大丈夫だよ。滑り止めと同じレベルなんだから」
「お前……」
北斗の成績は、加減をしていてもこの家の人間からすればほとんど天上の領域だ。諒悟の表情がみるみる険しくなり、肩に力が入る。
「兄さんが親父の目に映らないのは、俺のせいじゃないんじゃない?」
「っな……」
痛いところを突かれ、諒悟の怒りは簡単に沸点に到達してしまったらしい。こんな問答をするつもりはなかった。きっと疲れているせいだ。そんなことを考えているうちに諒悟が北斗の前に立ち、手を振り上げる。
「……、」
目を閉じ歯を食いしばったけれど、痛みは走らなかった。代わりに乾いた音と、北斗を庇った隼瀬が飛び込んでくる衝撃があった。
「っい……」
「隼瀬……」
北斗に抱き止められた隼瀬を見て、諒悟はいくらか冷静になったようだ。まずいことをしてしまったという焦りが顔に出ている。
「だ、大体、お前も悪いんだ。城北医科大にすら受からないなんて……」
「……ごめんなさい」
責任転嫁で誤魔化そうとする諒悟に、隼瀬は傷ついた表情を浮かべ視線を落とした。
隼瀬が医大に入ったところでこの家の状況が変わったはずがない。さすがに諒悟もそれはわかっているようで、すぐにばつの悪そうな顔をして隼瀬から目を逸らした。
「っとにかく、北斗、お前のわがままで俺たち家族を振り回すのはやめろ。俺は、お前を認めないからな」
諒悟は焦りの消えない表情のまま、逃げ帰るように家の中へと入っていった。
「北斗、大丈夫?」
隼瀬はしゃべり辛そうに頬を押さえながら、北斗から身体を離した。口の端から出血している。歯を食いしばる暇がなかったのだろう。
「……何で、庇ったりするんだよ」
「気がついたら、飛び出してた」
北斗は短く息を吐き、苦く笑う隼瀬の口元を自分のシャツの裾で拭った。隼瀬を気遣ったわけではなく、洋服に執着がなかっただけだった。隼瀬は目を丸くし、それから頬をわずかに紅潮させた。
「……諒悟兄さんも、驚いたんだよ。急だったし……」
「別に、好きで帰ってきたわけじゃねぇよ」
「え……そうなの? じゃあ、どうして……?」
「……好きな人ができたから」
「え?」
「俺の人生全部賭けて、そのひとのためだけに生きてきたと思えるほどの人に会った。でもだめだった。だから逃げた」
「……、」
隼瀬の表情が固まり、血の気が引いた。どうしてよりによって隼瀬にこんなことを話しているのか、自分でもよくわからない。隼瀬に庇われたことに腹が立っているのかもしれない。
「……俺、風呂入るから」
北斗は一人で立ち上がり、バッグを拾った。ジーンズを叩くと、埃が舞う。手がかさついて気持ち悪い。
「っ……北斗、」
「何だよ」
低く呟き、隼瀬を振り返ると、怯えたように小さく首を横に振る。北斗は再び隼瀬に背を向けた。
もう、何もない。何も。この先得るものも、失うものも。手に入れたいと思ったものはたったひとつで、それは手に入らなかった。
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