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第3話

 明け方の空気は重かった。静謐さが余計に空間を強張らせている。雨は止んでいるようだけれど、湿気が多く、まだ空は厚い雲に覆われている。すぐにまた降り出すかもしれない。  数ヶ月ぶりに眠るベッドは、以前よりも空虚の匂いを強く感じた。眠りは浅くも深くもなくいつも通りだった。夢は見ない。子供の頃から極端に睡眠時間が短く、一日に眠るのはせいぜい三時間程だ。どんなに疲れていても、二、三時間眠ればいつもと同じように目が覚める。もし八時間眠ることのできる身体を持っていたら、きっと人生はもう少しましなものになったのに。時おりそんなことを考える。 「――……」  壁に背中を預け、ぼんやりと窓の外を眺める。朝になって、昨日隼瀬にここに戻った理由を話したことを少し後悔していた。  中原の養子になり、北斗はようやく自分を客観的に見るようになった。自分の異質さに気付き、自分を偽ることも覚えた。本当の自分が誰からも愛されないのなら、愛される仮面をつければいい。たったそれだけのことだけれど、その過程は想像以上の労力を要した。苦労して作り出した融通の利く優等生の仮面をかぶると、誰も北斗を気味悪がらなくなった。悪意のある言動をぶつけられることもなくなった。  ただ、誰の前でもその姿でいられるのに、隼瀬は昔から例外だった。彼を前にすると、いつもできそこないを痛感する。 「……」  溜息が零れて、北斗は身体をずらしベッドに寝転がった。水面が光を反射させるように、境界が揺らいでいる。篤史への感情の波が消えない。それは北斗の手の届かない位置にあって、反応を繰り返している。  心臓か脳のどちらかが止まるその瞬間までに、肉体以外の全ては消え行くはずだ。幸福も痛みも、何もかも。ましてや他人なんて、流れる水のようなものだ。大事に掬い上げて一生保っていられると信じる方がどうかしている。  ずっとそう思ってきたし、だからこそ、自分を繕っていられた。けれどこの揺らぎがいつなくなるのか、今は自分でもよくわからない。北斗にとって篤史は現在であり、未来でもあった。初めて、見えるはずのない未来に思いを馳せた。 「……、」  それ以上考えるのが嫌になり、北斗は目を閉じた。頭の中を白くするイメージを思い浮かべる。眠りにつくことはできないので、それに近い状態を無理やり作り出す。何も考えたくない時にはこうして、ただ時間が過ぎるのを待つ。  深い呼吸の合間に、雨の残り香を濃く感じる。緑の匂いも混じっている。もうすぐ梅雨が明け、光に満ちた季節がやってきてしまう。  北斗は静寂に身を潜めながら、朝食までの時間を潰すことにした。食事は極力家族全員で摂るというのがこの家のくだらない決まりごとのひとつだった。大した会話もなく家族が黙って食事をするだけなのだけれど。養父は家族が皆自分の支配下にあるということを常に確認していたいのだろう。  休日の朝食は慣習で八時頃と決まっている。身支度を整え、自室のある三階から一階のダイニングに下りると、養父母と二人の兄はすでに起きてきていた。席につきながら隼瀬と諒悟を順番に見やる。隼瀬はわずかに頬を腫らしていて、そのせいか諒悟は気まずそうだった。 「北斗、遅いぞ」  朝刊に目を通していた養父が、それを折り畳みながら言った。北斗は白々しく笑ってみせた。白々しいといっても、それがいつもの笑い方で、誰かに不自然さを指摘されたことはない。 「あー、すみません。二度寝してしまって」 「……そうか。まぁ、疲れてるんだろう――顔色が悪いじゃないか」  新聞を脇に置き、北斗を見た父は少し驚いたように言った。 「平気ですよ。今日は一日休むし。それより、隼瀬兄さんの方は?」  北斗が隼瀬の顔を見ると、隼瀬と諒悟がそれぞれぎくりとした表情を浮かべた。けれど養父には北斗の言葉の意味がわからなかったようだ。 「何だ、隼瀬、お前も具合が悪いのか?」 「いえ……僕は……」 「そうか」  養父はただ頷いただけで、食事に箸をつけ始めた。北斗がこの家の子供になってから、父の関心は実子よりも北斗に傾いた。隼瀬の頬の腫れは知らなければ判断しづらい程度のものであるにしても、あからさまな態度だった。隼瀬も少し傷ついた顔をしている。 「……湊馬(そうま)は?」  養父に倣って食事を始めた兄たちを見て、北斗はふと尋ねた。三男の湊馬が来ていない。 「予備校の合宿なの。お昼には帰ってくるわ」  トレーに載せた味噌汁の椀を北斗の前に置きながら養母が言った。 「湊馬はどうして成績が上がらないんだ?」 「あなた……」 「あいつまで受験に失敗させるわけにはいかんだろう」  養父の厳しい口調に、席に着いた養母と二人の息子が押し黙った。北斗は味噌汁をすすりながら、緊張感に固まった食事風景を眺めた。相変わらずだ。飽きもせずに繰り返しているらしい。 「北斗、お前が頼りだからな。今度こそこっちの大学に入るんだ」 「わかってますよ。安心してください」 「そうか……必要なものがあったら、何でも言いなさい」 「はい」  養父は北斗の適当な返事に満足そうに頷き、食事を続けた。諒悟が悔しそうに唇を噛んでいる。 「新しい予備校の手配はもう済んでいるからな」 「あぁ、はい」  本当は予備校など必要ないけれど、毎日家にいるのも退屈だし仕方がない。北斗は頷き、それを了承した。 「医学部受験専門だからな。しっかり対策打てるだろう」 「へぇ」 「少し通いづらいのが難点だな。時間がもったいない……隼瀬に毎日送迎させる」 「っ……父さん」  養父の一言に先に反応したのは隼瀬だった。隼瀬は顔を赤くして腰を浮かせ、北斗以外の全員の視線が彼に集中した。 「なんだ、隼瀬。お前は時間あるだろう。北斗を送ってからでも講義は間に合うはずだ。運転の練習にもちょうどいいし、北斗の手間も省ける」  北斗の移動の負担を減らすというのはただの建前で、本当の目的は北斗の行動を逐一把握するためだろう。口には出さずとも、養父はまた北斗が勝手に進路を変えることを心配しているのだ。隼瀬の大学は家から徒歩圏内だし、確かに家の人間で送迎が可能なのは隼瀬くらいだ。 「だけど……あの……」 「なんだ。都合が悪いのか? 理由があるならはっきり言いなさい」 「そうじゃ……ないけど」  隼瀬が北斗を窺う。昨日北斗が言ったことを気にしているらしい。北斗は箸を置き、息を吐いた。 「隼瀬兄さんの負担になるし、俺は大丈夫ですよ。通えます」  養父はもう隼瀬に送迎させることを決めている。確定事項だ。でも、少なくとも北斗はこんな茶番を繰り返すことにはもう慣れている。 「隼瀬、」  薄っぺらな威厳を込めて、養父は隼瀬を促した。隼瀬はようやく逆らっても無意味だということを悟ったようで、浮かせていた腰を下ろす。養母と諒悟は食事を進めるふりをしながら行く末を観察している。 「……わかりました」 「北斗を事故に巻き込んだりするんじゃないぞ。気をつけなさい」 「はい」 「講義は明日からだな?」 「あ、ええ……」  養父に急に話をふられた養母は慌てて頷いた。 「北斗も、いいな?」 「わかりました」 「本当に、今度こそ大丈夫なんだろうな」 「わかってますよ。もう勝手なことはしない」  北斗は平坦な声で言い、頷いた。 湿気の滲んだ室内は全ての境界がぼやけていて、まるで現実味がなかった。幻想のなかにいるような気分で、確かなものは鈍い痛みだけだ。 内側でうねる感情の波は今も消えない。感情を全て手放した時、きっと人間は完璧になれるのに。

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