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第4話

 正午に差し掛かる頃になって、再び雨が降り出した。昨晩の雨が更に重くなったような質感は、まるで鉛の液体のようだった。雨が木々を揺らすのを部屋から眺めつつ、北斗は一日を呆然と過ごした。  じっとしていると雨音とその匂いに縛り付けられ、気付くと篤史のことを考えている。初めて目が篤史を捉えた時は、一瞬で視線が逸れた。その一瞬が焼きつき、二度目は数秒見つめていた。大学に入学してからは、彼と同じ空間にいられる時間全て、目が離せなかった。声を聞きたいと思ったし、触れたかった。単純なプロセスをもどかしく、また、怖く感じた。 「――……」  零れた溜息が、窓にわずかな痕跡を残した。  まともな恋愛をしたことのない北斗にとって、篤史に対する感情は新鮮だった。 「……、」  静寂に閉じられた世界を壊すような、硬質な音が響いた。北斗がドアに目を遣ると、数秒間を置いた後で隼瀬が顔を出した。 「えっと……今、いいかな」 「なに?」 「これ、渡しておいてって、母さんに頼まれて……」  隼瀬は北斗の目を見ずに、部屋に入り、手にしていた書類を差し出した。明日から通う予定の予備校の資料だった。 「……わざわざ、どうも」  素っ気無い返事をして受け取ると、隼瀬は気まずそうに目を泳がせた。昨日諒悟に殴られてから、彼の空気はずっと緊張している。予備校の資料なんて、明日の朝でもいいはずだ。 「まだなんかあんの?」 「うん……いや、そういうわけじゃないけど」 「けど、何?」 「あ……えと、ごめん」 「何に対して謝ってんのか、わかんないんだけど?」  肩を落とすだけで一向に核心に触れようとしない隼瀬に焦れて、北斗は資料をベッドの前方に放り隼瀬を向き直った。 「……なんていうか、あの……昨日、言ってたこと」 「……あ?」 「あの……北斗が、帰ってきたわけって……少し気になって」  自分自身、隼瀬に話したことを後悔しているのに、今更蒸し返されたことに北斗は不機嫌さをますます募らせた。 「あれは、本当?」 「だったら何」  北斗が睨むと、隼瀬はぎくりと肩を震わせ、それから首を横に振った。 「ただ……少し、驚いて」 「は……俺みたいなできそこないが人を好きになるのがおかしいって?」 「っえ?」  隼瀬は思ってもみなかったかのような顔をして、表情をとめたまま首を振る。 「馬鹿にしてんの?」 「待って、そうじゃないよ。そんなこと、思わない」 「じゃあ何なんだよ。笑いにきたわけ?」 「違うよ。俺は、ただ……」 「何、」  ばち、という大きな音がした。風で飛んだ庭の木の葉が窓にぶつかったらしい。胸の中の熱の塊が一気に冷えるのがわかった。隼瀬は視線を落とし、緊張にがたついた吐息のようなものを漏らした。 「……少し気になっただけだよ。本当に急だったから。ごめん、変なこと聞いて」 「……」 「あ、明日家出るの、八時半でいい? 講義は九時からだって。おれは、二限からだから……」 「……わかった」 「変なこと聞いて、ごめん」  顔を背けた北斗に隼瀬は言って、部屋を出て行った。北斗は頭を掻き、舌打ちをした。  空気ではない気体が膨張するような違和感があった。雨はますます強くなっている。北斗は窓の外と部屋の中を見比べ、それから溜息を吐いて部屋を出た。  中原の家は市の中心地から少し離れていて、すぐそばには著名な観光地がいくつかあるものの、その割には緑が多く静かだ。思考が煮詰まった時など、北斗はよく歩く。歩いていると頭の中で散らばった思考が収束に近づくような気がするからだ。 「――あれ、北斗くん?」  一階に下りると、空気にそぐわない明るい声に呼ばれ、北斗は俯けていた顔をあげた。三男の湊馬が、玄関に立って手を振っている。制服姿で、肩からボストンバッグを斜めに掛けている。予備校の合宿とやらからちょうど帰ってきたところらしい。 「……湊馬」 「今日帰ってくるんだった?」 「昨日」 「あ、そっか。そうだった。おかえり」 「ああ」 「どっか行くの?」 「……散歩」 「雨降ってるよ?」  バッグを下ろし、腕に付着した雨を払いながら湊馬が笑った。 「知ってるけど」 「ふぅん、じゃあ、オレも行こう」 「じゃあって、何でだよ」 「コンビニ寄ろうと思ってたの忘れてたから。途中まで。だめ?」 「……いいけど」  湊馬は末っ子のせいか、この家には馴染まない人懐こさを持っている。成績はよくないけれど、要領だけは三兄弟で一番いい。  傘を差しながら外に出ると、近くなった雨の音が耳を塞いだ。しっとりとした空気が肌に吸いつく。少し気温が下がっているようだ。半袖では肌寒いくらいだった。 「本当に戻ってきたね、北斗くん」  歩き出した北斗の後ろに続く湊馬が、落ち着いた声で言った。門を出ると狭い一方通行道路に入る。車も人もほとんど通らない。 「本当にって、冗談だと思ってたわけ?」 「うん、まぁ、少しね」 「俺、冗談は下手なんだよ」 「だけど、あの親父言いくるめて出てったんだから、よっぽど行きたい大学だったんじゃないの? オレ馬鹿だから、よくわかんないけどさ」 「……」 「まぁ、オレは嬉しいけど。親父の機嫌もよくなるし……あ、隼瀬くんは? もう会った?」  隼瀬とのやり取りを思い出し、憂苦さに足を取られ北斗は立ち止まった。後ろを歩いていた湊馬の傘が北斗の傘にぶつかりぱらぱらと雨滴が落ちる。 「……と、危な。何?」 「別に」 「会ってないの?」 「飯ん時会ったけど。何で?」 「何怒ってんの?」 「怒ってない」 「……ふぅん?」  湊馬は北斗の隣に並び、横目で口元を歪めた。 「隼瀬くん、かなり落ち込んでたよ。北斗くんが出てってからずっと」 「はぁ? なんであの人が落ち込むんだよ」 「なんでって。隼瀬くんずっと北斗くんのこと好きじゃん」 「……は?」 「知ってたでしょ?」  立ち止まった北斗を湊馬が追い越し、顔を覗き込んだ。 「……何の話?」 「何っていうか、そのままだよ。北斗くんは、男は対象外?」  話の飛躍についていけず、北斗はこめかみを押さえる。 「対象外……とか、男とかどうとか以前に兄弟なんだけど」 「まさか。そんなこと思ってないくせに」 「……」  溜息をつくと、湊馬はどこか楽しそうに目を細めてみせた。  隼瀬がやけに北斗に構おうとすることくらいは認識していたけれど、そこに恋愛感情があるなどということは考えもしなかった。ずっと避けられたりきつい態度を取られてきているのに、一体何をどうしてそんな感情を抱くなどという話になるのか、皆目見当がつかない。人間はみな、自分がありえないと思っていることに対しては多少なり鈍くなる。隼瀬は義理とはいえ兄弟に特別な感情を抱く自分を受け入れられるほど強くもないように思えた。もちろん、湊馬の勝手な想像に過ぎない可能性は十二分だ。 「まぁ、どうなのかなって思ってただけ。兄弟っても別に血が繋がってるわけじゃないし」 「……」 「恋愛は自由だし。隼瀬くんはわかりやすいし? 北斗くんは……隼瀬くんにオレとか諒悟くんとは違うなんか特別な感情? あるみたいだし?」 「……お前、何で勉強できないの?」 「あ、はぐらかした」  にやつく湊馬の顔を手で除けて、再び歩きはじめる。足下の雨水が撥ねて、衣服を濡らす。纏わりつく布の感触が気持ち悪かった。  思い出したように、胸が痛み出す。記憶と現実。幻想と絶望。原因がたくさんありすぎて、欠陥品のそれが何に対して悲鳴をあげているのか判断できない。なぜ生きているのか。どこへ向かうのか。問いかけに答えが出たことはない。ただ、鬱陶しい雨のにおいが北斗の苛立ちを助長した。

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