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第5話
夜の内に雨が上がり、朝にはくすみのない青空が広がっていた。太陽の白い光が濃い緑の匂いを誘発している。ニュースでは気象予報士が梅雨の中休みを告げた。予想気温は三十度。この季節、この辺りにしてはかなり高い気温だ。
夏が嫌いだ。生まれて最初の記憶も、厄介者として扱われるようになったのも、同級生に殴られ腐った牛乳を飲まされたのも、中原の家に引き取られたのも、全部夏だった。毎年夏の気配を感じる頃になると、胸に沈んだ澱が揺らぐ。異物感は消えることなく、夏の間中北斗を苦しめる。
通勤の時間帯に被ったせいで、市街地に向かう国道はひどく渋滞していた。道の先で大きな事故があったようだ。九時から講義が始まるというのに、時計はもう五分前を告げている。
「――あ」
ほとんど進まない車が赤信号に引っ掛かり、運転席の隼瀬が落胆の声を上げた。家を出てからすでに三十分が経過している。初日の講義とはいえ、遅刻に特にペナルティなどがあるわけでもない。北斗にとってはどうでもいいことだったけれど、真面目な隼瀬は先ほどから焦りを感じているようだった。
「ごめん……こんなに混むとは思わなくて」
「……別に。事故渋滞じゃしょうがないし」
北斗は適当に答えながら、サイドウィンドウに肘を付いた。腕に直射日光が当たり、じりじりと音を立て始める。
「……ごめん」
隼瀬は落ち込んだ様子でハンドルを握り直した。車に乗った時からずっと、隼瀬の緊張が空間を縛りつけている。北斗はこの二日の隼瀬の言動と、湊馬に言われたことを思い出し、溜息を吐いた。
目を閉じると、蝉の音とともに、隼瀬の無邪気な笑みが思い出される。あの時感じた通り、その後も北斗があの笑みをつくることはできなかった。いつも、そこには憎しみと淀みしかない。
隼瀬はいったいいつから、どうして自分のことをそんな目で見ていたのだろう。生い立ちのこともあり、人の感情には敏感なつもりだった。けれどなぜ隼瀬が自分を構いたがるのかなんて考えなかった。
「……」
腕に溜め込まれる熱が飽和し、北斗は瞼を開き腕を下ろした。車はまるで進んでいない。講義はもう開始している。
「進まないね……」
「男が好きなの?」
「え?」
永遠に続くような車の列を遠い目で見ていた隼瀬は、驚いた様子で北斗の方を向いた。時計の針は少しずつ歩みを鈍らせ、やがて止まる。
「それとも、俺が好きなだけ?」
重い灰色の雲間から顔を出した太陽くらいには唐突だという自覚があった。進行の止まらない歪みに拍車をかけて、それが止まるのか、またひどくなるなのか、予測は難しい。
「っ……なに?」
隼瀬の声は動揺に震えていた。
「湊馬が、あんたは俺のことが好きだって言うんだけど」
「……っ」
「それって本当? 嘘?」
顔面蒼白になった隼瀬の唇とハンドルを握る手が震える。
「どっちなんだよ」
「ど……っち……って……言われても」
胸のざわつきが大きくなる。何のためにここに戻ってきたのかという問いを投げかけられたような気がした。
「はっきりしねぇな」
「……、」
「……そこのパーキング入れて」
「え、でも、予備校が……」
「もう講義始まってる。ここからなら歩いても変わらない」
隼瀬は困惑しながらも、北斗に言われたとおりに車をパーキングに入れた。車から降りるだけならわざわざパーキングに停める必要がないことはさすがの隼瀬も理解しているようで、事態に怯えているのがわかった。
動揺している隼瀬がパーキングの空いたスペースに車を入れるのには時間がかかった。何度も切り返し、結局車は斜めの状態でどうにか白い枠に収まった。北斗は冷静にエンジンが切られ車が眠るのを待った。そうして五分ほどかけて訪れた時はまるで宇宙のように静かだった。エンジンを切ったのでエアコンも止まり、あっという間に熱が漂い始めるのがわかる。隼瀬はハンドルを握ったまま、少し震えを大きくした。
「何震えてんの?」
「っ……」
「何?」
「あの……」
ハンドルを離せないらしい隼瀬の左手を取ると、太陽と同じくらい強い熱を持った隼瀬の双眸が北斗を捉えた。乾いている。ひびが入りそうなほど。
「おれ……北斗に嫌われてるから」
「……」
北斗が何をしてでも手に入れたいと思ったものは、綺麗に透き通った水のような液体は、手のひらから零れ落ちてしまった。二度と掬えない。
「ほ、くと……」
左腕を引き込み、唇に触れる。隼瀬が息を呑み、熱が広がる。降り注ぐ光とは質の異なる熱。いびつな波を描いていた感情が均されていくのがわかった。
「北斗……だめだよ……」
触れるだけのキスから、身体を隼瀬に寄せる。熱い。隼瀬はパニック状態に陥っているようだった。
「何が?」
「何が……って……」
「俺のこと好きなんじゃないの?」
「っ……」
「答えろよ」
「……」
「早く」
「……っ」
震えながら開いた唇を、北斗は否定するように自分のそれで押さえつけた。隼瀬がびくりと身体を捩らせる。
隼瀬の気持ちに応えようと思ったわけでも、終わらせようと思ったわけでもなかった。隼瀬が大事に抱えているまるでおもちゃのような感情を、北斗は受け入れない。隼瀬がそのことに気付いて、感情を手のひらから放す時、楽になれるような気がした。それでずっと胸につかえていた幼い頃の呪いが解ける。唐突に、けれど自然とそう思った。
ガラスで屈折された光が身体に当たって小さな音を発している。忙しなく波打つ隼瀬の心臓の音の合間にそれを聞きながら、北斗はキスを深くした。
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