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第6話

 隼瀬を車に残したまま、北斗はパーキングを出た。車を降りる時に講義の終わる時間を伝えると、隼瀬は真っ赤な顔で頷いた。たった一、二分の間エアコンが止まっていた車内は急速に熱気を溜め込んでいたけれど、外はそれとは比にならないほど暑い。まだ午前中だというのに、全ての水分を蒸発させんばかりだ。  眩暈を覚えながらも、北斗はパーキングから十五分ほど歩いて予備校に辿りついた。医学部受験専門の予備校は建物自体そう大きくなく、一コマ目の講義が始まったばかりの予備校の校舎内は静かだった。エアコンが効いていて、汗ばんだ肌が急激に冷えてべたつき始める。  受付で名前を告げて教材を受け取る。全科目分あるのでかなりの重みだ。ずしりとした質量を右手で支えながら、北斗はエレベーターで階を移動し、教室の前に設置されたソファに腰を下ろした。今から講義に出席するのは少し億劫だ。 「……」  質量から解放された右腕に血が通う。教室から講師の声が漏れていた。  北斗の行動を隼瀬は理解できなかっただろう。北斗は冷静だった。隼瀬が抱えているものと、自分が生きてきた地獄の差を見せつけたくなった。隼瀬が全てを投げ出すとき、ようやくあの頃の記憶から解き放たれるはずだ。 「――中原?」  北斗は不意に名前を呼ばれたことに驚き、俯けていた顔をあげた。目の前に立っている男の顔を見て、すぐに名前を思い浮かべる。 「……向埜由多加(こうのゆたか)」 「フルネーム? 別にいいけどさ」  由多加が笑う。由多加は北斗が現役の頃に通っていた予備校のクラスメイトだ。父親が開業医で、医学部を目指させられている。中原家の三兄弟と似た境遇だ。最後に会ったのは国立大学の後期試験を控えた頃で、その結果を北斗は知らなかったけれど、ここにいるということはどうやら一度目の受験には失敗したらしい。 「久しぶり」  北斗は緩く笑みを浮かべた。誰も、それが偽物だなんて疑わない。大抵の人間が身につけている仮面で、昔の北斗は持っていなかった。 「久しぶり。ていうか、何でいんの? バイト?」  由多加は長い睫毛を瞬かせ、首を傾げた。 「生徒だよ」 「えー、何で。受かったって聞いたよ。東京行ったんでしょ」 「辞めたから。来年もう一回」 「辞めたって、何でまた」 「家の都合。色々あるんだよ、俺ん家も」 「……はぁ」  由多加は少し考えた上で、納得したようだった。同じようにいわゆる開業医を親に持つ子供だ。親の都合に振り回されることには慣れている。北斗のケースでは実際に振り回されたのは中原家の方だけれど。 「なるほどね。でも、もったいなー……トップレベルの医学部なのに」 「向埜は? 私立受かってただろ」 「だめだめ。最低でも旧帝じゃないと。親父納得しないもん」 「ふぅん」  うんざりした様子で溜息を吐き、由多加は北斗の隣に座った。 「俺の頭じゃ無理なのにさぁ」 「まだ一年あるだろ。落ち込むなよ」 「もっと言って」 「向埜なら大丈夫だって」 「っ……中原! 相変わらず優しいなぁ……」  冗談めかした口調で言いながら、北斗の肩にれる。目が合うと、由多加は白い歯を見せた。 「へへ」 「何だよ、その顔」 「いやぁ、相変わらず美形だなぁと思って。彼女とかできちゃった?」 「……いや」 「じゃ、また俺と遊ぼう?」  誰もいないのをいいことに、由多加は北斗に身体を擦り寄せて耳元で囁いた。高校時代、この調子で誘われて何度か寝た。初対面の時にあっさりとゲイをカミングアウトされ、好みだから寝てくれと言われた。同性愛の気のある人間を高確率で当てられるらしいけれど、北斗に関してはゲイの自信はなく性的にリベラルの可能性にかけたらしい。特に彼に対して名前のつく感情を抱いたわけではなかったけれど、退屈しのぎに、と由多加の誘いに乗ってみることにしたのだった。 「いいのかよ、浪人生がそんなこと言ってて」 「それはそれ、これはこれ」 「……まぁ、いいけど、暇だし」 「あ、やった。ラッキー」  由多加は笑い、北斗の顔に手を当ててキスをした。ごく軽いキスの後で口元を歪める。北斗は隼瀬とのキスを思い出した。まるで質の違うキスだった。 「中原?」 「何でもない。ていうか、向埜も相変わらずだな」 「久しぶりだって言ったって、最後に会ったの三月だぜ? たった四か月やそこらで変わんないよ」 「……そう?」 「そう。中原も変わんないじゃんか」  確かに、この街を離れていたのは半年に満たない。それなのに、そのたった半年で北斗はとても大きなものを失ってしまった。 「どうだかな……ていうか、向埜、講義受けにきたんじゃないの?」  北斗が教室を顎で指すと、由多加は北斗から身体を離し背もたれに寄りかかった。 「寝坊したんだ。途中から入ろうと思ったけど、中原に会ったしやめる」 「前に授業さぼったのばれて外出禁止にされてなかった?」 「浪人決まってから一人暮らしなんだよ。一人で集中したいって言ったら親父がマンション借りてくれたから」  あっさりとした言い方に由多加の育ちの良さが見える。成績も悪くない。節操がないのは性生活だけだ。 「だから、場所には困んないよ?」  由多加はまた北斗の耳元に唇を寄せて笑った。それからおもむろに立ち上がり、身体を伸ばした。 「まぁ、けど、この時間はとりあえず自習にする。まだ朝だしね」 「そうだな」 「中原も行く?」 「いや、俺はこっち出とく」  教室を指差すと、由多加は頷いた。 「電話する。番号変わってない?」 「変えてない」 「わかった」  由多加がまた顔を近付けてきたので、黙ってキスに応えた。由多加は満足げに微笑み、自習室へと入っていった。 「……」  少しの間、北斗は静寂に身を浸した。この街に戻ってきてから何度か、数か月の出来事を幻のように感じた。現実だと気づくときにはいつもひどい虚無感に襲われる。  時間が流れて行く。さっさと講義室に入ろうと思うのに、身体はその場に根を張ったようになかなか動く気分にならなかった。

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