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第7話

 初日のスケジュールは一コマの空きがあっただけで、全ての講義を終えた頃には十時を回っていた。難関大医学部を目指す浪人生のみのコースだけあって、教室は常に緊張感に満ち、独特の空気が漂っていた。とはいえ北斗自身がその空気にプレッシャーを感じるようなことはない。ノートを取り、講義に真剣に耳を傾けているふりはするけれど、十時間近い講義の後も身体の疲れはさほど感じない。もう慣れている。  予備校の校舎を出ると、柔らかな夜の空気には夏の匂いが混じっていた。北斗は内心で舌打ちをし、重い荷物を抱え直した。おそらく隼瀬はもう来ているだろう。 「なーかはら」  少しの気重さを覚えながら人の流れに乗ろうとすると、後ろから声をかけられた。疲弊が漂う空気の中で、一際明るい声。由多加だ。 「……向埜」 「お疲れ。今まで講義?」 「まぁな。お前も?」 「俺は六コマまで。自習してた」 「ふぅん」 「中原って家どこだっけ? 地下鉄?」 「あー……いや、迎えが来る」  熱を帯びた隼瀬の表情と声を思い出すと、身体のどこかに沈んだ澱が揺らぐような気がした。 「迎え?」  歩き出しながら、由多加は意外なことを聞いたような表情で聞き返した。 「そこの通り。多分もう来てる」  広い通りに斜めに横付けされたアウディを想像し、北斗は小さく嘆息した。 「家の人?」 「……兄貴」 「あぁ、へぇ……何か意外」 「親父の命令なんだよ」  北斗が言うと、由多加は溜息混じりに笑った。自分の境遇と重ねたのかもしれない。 「そういうことか。お互い大変だな」 「まぁな」  人の流れに乗って通りに出ると、北斗はすぐにハザードを点滅させる隼瀬の車を発見した。予想通り、斜めに停まっている。 「来てる?」 「……ああ」 「そ。じゃ、俺は地下鉄だから」 「ああ。また」 「また、な」  由多加は北斗の肩を引き寄せ、耳元で囁くようにして言った。そのわりに北斗の返事を待たずさっさと駅の方へ去っていく。由多加の後ろ姿を一瞥して、北斗は溜息を吐きながら車へと向かった。隼瀬が由多加の十分の一でも軽やかさを持っていたら、きっとあんなことはしなかった。  車のサイドウィンドウを叩くと、運転席で呆然とどこかを見つめていた隼瀬がぎくりと身体を震わせた。キスひとつで、隼瀬はあっという間に世界を見失う。隼瀬が慌てた様子でロックを解除するのを待って、北斗は車に乗り込んだ。車内の篭った空気と外の緩やかな風とが混ざり合う。鬱陶しい夏の匂いが鼻を抜ける。 「……、」  隼瀬は必死で言葉を探しているようだった。けれど結局何も出てこない。ハザードランプの音が緊張を煽る。無言で前を向いているだけで、隼瀬の首を絞めているような気分だ。 「出さねぇの?」 「っ……え?」 「車」 「っ……うん……出すよ」  隼瀬が慌ててエンジンボタンを押す。けれどブレーキを踏み忘れているらしく、エンジンはなかなかかからない。 「何してんの」 「わ、ごめ……」  隼瀬は深呼吸をして一連の動作をやり直した。エンジンの音がようやく落ち着きを見せる。 「……」  いつでも発進できる状態になったものの、通りは車の往来が増え、間に入るには目の前の信号が赤になるのを待つ必要がありそうだった。北斗はハンドルを握る隼瀬を横目で見て、また溜息を吐いた。 「言いたいことがあるなら言えば?」 「え?」 「朝のこと、まだ気にしてんじゃないの」 「……、」  隼瀬は戸惑った表情を北斗に向けた。認めていいのかどうか迷っているようだった。信号が変わり赤い光が反射している。 「ごめん……」  毎度のことだけれど何に対しての謝罪かわからない。そう思って、けれど北斗はそれを口にはしなかった。 「どうして欲しい? 謝って欲しければ謝るし、もっとして欲しければ、まぁ、それでもいいけど」  隼瀬が目を見開く。静止した空気を伝って隼瀬の鼓動が聞こえてきそうだった。夜の中に青く燃える炎が溶け込むようだ。  隼瀬はきっと認めるだろう。彼が好きだと思ったものは欠陥だらけの不良品だということを。その時初めて、北斗は呪縛から解かれる。 「なんで……」 「さぁ、何でだろうな」 「……」 「どうする?」  近づく北斗を、隼瀬は拒絶しなかった。北斗は彼の手を取り、身体を引き寄せた。 「っ……ん、ぅ……」  隼瀬はやっぱり、潤に似ている。隼瀬の受け入れるだけの唇を深く侵しながら、北斗は思った。だからこそ、篤史が潤を選んだことが許せなかった。  世界が歪むほど、北斗はどこかで安堵も感じる。どこかに必ず臨界があって、いつかは全部崩れるから。

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