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第8話

 由多加の父が息子のために用意したというマンションは、予備校生の仮住まいとしては十分過ぎるほど立派なものだった。十五畳ほどはありそうなリビングに、書斎スペースと、クイーンサイズのベッドが置かれた寝室。設備も充実している。  再会から二週間のうちに、北斗はもう三度この部屋を訪れていた。由多加の誘いはいつも強制力を感じさせないので、受けやすい。本人が意識してやっているのかはわからないけれど。  まだ買ったばかりだというレザーのソファが、二人の身体の動きに合わせて揺れている。汗ばんだ肌にエアコンの風が当たり、不思議な温度を作り出していた。 「っ……」  由多加が大きく身体を震わせ、それからがくりとソファに沈んだ。北斗はコンドームを外しながら彼に覆いかぶさる。レザーは汗を吸収せず、肌を滑らせた。 「あー、ゴム床に捨てんなよ」 「ごみ箱取って」 「待って」  由多加は余韻もなくソファから起き上がり、ティッシュの箱とごみ箱を差し出した。まだまだ余裕があるらしい。 「ん」  コンドームをティッシュに包みごみ箱に放ると、由多加は適当な場所にごみ箱を放置して北斗に身を寄せた。二人の間の空気が抜かれるように、肌が吸い寄せ合う。 「ベッドでもっかい?」 「んー……」 「あ、気のない返事。冷たいなぁ」  由多加は笑いながら北斗の顔を引き寄せキスをした。感触は軽く、どこにも何も響かなかった。 「もしかしてこれから誰かに会うとか?」  キスの後で、由多加がからかうように口元を歪めた。講義を終えてから由多加に誘われて来たので、もう十一時を回ろうとしている。家には勉強会をすると説明してあるし、帰るのが面倒になれば泊まっても構わないと思っていたところだった。 「誰かって、何で?」 「さっき予備校で電話してたじゃん。俺が誘ったあと」 「……兄貴だよ。勉強会するから迎えいらないって言っただけ。もう来てたみたいだけど」  北斗の勉強会の話を聞いて、隼瀬は平静を努めた声でわかった、と言った。ここまでの二週間、隼瀬はほぼ毎日北斗を予備校まで送迎している。そして一日に二回のキスは習慣となっていた。回数を重ねるごとに隼瀬の戸惑いは加速している。そのくせもうやめようとは言い出さない。先の電話でも、平静の奥の落胆がありありと見て取れた。 「あぁ、お兄さん。本当に毎日迎えにきてくれてるんだ。優しいね」 「運転の練習だって」 「練習っていったって、そんな暇でもないでしょ。大学生?」 「そうだけど。大学すぐ近くだし、暇そう」 「ふぅん……そうかなぁ。ていうか、女かと思ったのに」 「女? 何で?」 「中原モテるからさぁ」 「そんないい話ねぇよ」 「またそんなこと言って。社員のお姉さんたちの間でめっちゃ話題らしいよ、君。超かっこいい人が入ってきたーって。成績もいいし? 将来医者だし?」 「……女は面倒くさいから男の方がいい」 「いやー、本気の男のほうが面倒くさいと思うよ」 「本気だったら性別関係なく面倒だろ」 「んー……まぁ、そりゃそうか。うん、だから俺、中原大好き」  由多加は笑って、北斗の肩口に頬を摺り寄せた。お互いが本気でないことさえわかっていれば、これほど気楽な関係はないのだろう、確かに。隼瀬とはまるで対照的な考え方だ。 「中原に本命できちゃったら寂しいなぁ、俺」 「向埜が彼氏作る方が早いと思うけど」 「えー、そうかぁ? 今のスタンス結構楽だからなぁ……あ、ビールでも飲む?」 「ん」  ほんの数年前まで、自分が誰かを本気で好きになることなどあり得ないと思っていた。それがたった一瞬で覆されて、今はもう、何も残らない。なんて虚しいのだろう。虚しくて、無意味だ。わかっていたはずだった。 「中原、ビール」  ソファに寝転がっていた北斗は、由多加にビールを差し出されると、それを受け取りながら身体を起こした。汗が引き、エアコンの風が少し冷たく感じる。 「あ、そういやさ、TAの人が言ってたけど、中原が行ってた大学、日和佐いるって本当?」  思いがけない名前を聞き、缶を握る手に力が入った。心臓に凍った風が触れる。聞きたくない名前だった。 「……何?」 「日和佐潤って、現役の時いっつも一位取ってたやついたじゃん。覚えてないの?」 「……」 「その人の先輩が、日和佐が通ってた予備校で講師してんだって。ほとんど講義出なかったらしいけど……なんか、すっごい美形だって。本当?」 「人形みたいな顔してた」  あの綺麗な顔で、弱い心で、篤史を奪っていった。潤は間違いなく、北斗と似た境遇にいるに違いなかった。見ていればすぐにわかる。それなのに、潤だけが篤史に選ばれた。それが悔しくて、悲しかった。自分は潤よりもずっと努力して、苦労して、この仮面を手に入れたというのに。 「げぇ、マジか。天が二物を与えたって感じ? あーあ、不公平」 「……嫌なやつだったよ」 「え、そうなの? 性格悪い?」 「最悪」 「……ふぅん。中原がそこまで言うならよっぽどだな……まぁ、でもそうだよな」 「何が」 「全科目満点って、信用できない。気持ち悪ぃよ」 「……」  吐き捨てるような由多加の口調と冷めた目が、いつかの記憶と重なった。あの頃、自分は不器用なまま、それでもまだ必死に未来を信じようとしていた。けれど結局信じることはできずに、隼瀬の笑みを見て最後の希望も失ったような気分になった。自分は異質で、普通の人間にとって当たり前の生き方など到底できないのだと悟り、幻滅した。中原北斗になる前に出会った人間はみな、今の由多加と同じ目で北斗を見た。 「…………」 「中原? どうしたの?」  黙り込んだ北斗の顔を、由多加が不思議そうに覗き込んだ。ビールを飲む気にもならない。 「……悪い、帰る」  嫌な記憶にばかり縛られ、身動きが取れなくなりそうだった。北斗は由多加の身体を避け、辺りに散った衣服を身に着けた。 「え、何?」 「帰る。用事思い出した」 「用事……って、もう終電なくなるよ?」 「どうにかする」 「どうにかって、何で、泊まってけば」 「ごめん。また呼べよ」  手早く着替えると、北斗はまともに由多加の顔を見られないまま、ほとんど飛び出すようにして部屋を出た。  外は日中の熱気を逃がしきれず、蒸していた。北斗は苛立ちに乗り込んだエレベーターの壁を拳で叩いた。

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