9 / 18

第9話

 初めて篤史のことを見たのは、高校三年の夏のことだった。予備校で行われた医学部受験生のための集中講義合宿で、全国にあるその予備校の生徒たちの中から特に優秀な生徒のみに参加が認められるというものだった。北斗は父親の命令で仕方なくその合宿に参加したのだった。  出身の予備校ごとにグループが作られていく中、篤史はひとりだった。それが最初に目に留まった。少し感心したのかもしれない。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、大勢の中のひとりでいることの安心感を北斗は手放せなくなっていた。 それから合宿の間、何度か篤史のことを目が捉えた。彼は単独行動を取るうえにとても目立つ容姿をしていて、見れば見るほど端正なその顔に北斗の心は自然と惹きつけられた。心臓が高鳴り、全身に熱の膜が張る。それが特別な感情であると気付くのには少し時間を要した。初めて覚える種類の感情の揺らぎだった。けれどどうしてもそれらの症状を打ち消すことはできなかった。生まれて初めて、他人に執着を持った。  それはあまりにも衝撃的な体験で、北斗は怖くて篤史に話しかけることすらできなかった。講師室に忍び込み、篤史の資料を盗み見て、北斗はすぐに篤史が第一志望に掲げている大学を受けることを決めた。不自然でもおかしくもない、当然のことだと思った。どうしても篤史が欲しかった。  由多加のマンションを出た時にはすでに終電はなく、北斗はタクシーを拾って家に帰った。家に入ると、部屋に戻る前にシャワーを浴びた。深夜をまわった家の中は静かだった。まるで深い沼の底に沈んだように淀んでいる。 暗い階段を上がると、不意に物音が響き、北斗は俯けていた顔を上げた。ちょうど部屋から出てきた隼瀬と視線がぶつかる。感情の渦に濁った色の液体が垂れた。 「あ……おかえり」 「……」 「遅かったね。どこに……、」 「友達んとこ」  そう言って階段を上がりきると、北斗を見る隼瀬の目がぎくりと見開かれた。 「っ……」  視線が北斗の首筋に集中する。ちょうど隼瀬の部屋から漏れた明かりが矩形になって照らしていた。少し考えて、隼瀬がキスマークに動揺したのだということに気付く。由多加にふざけて付けられたものだった。 「何?」 「え、あ、うん……えっと……なんでも、ない」 「そんな風に見えないけど?」  隼瀬に詰め寄ると、隼瀬は息を呑み身体を硬直させた。どうしてこんなに弱いくせに、よりによって自分に好意を寄せたりするのだろう。裕福な家庭の次男に生まれて、他にもっと楽な道はいくらだってあるのに。 「北斗……」 「友達と会ってたっていうのは、セックスする友達のことだけど」 「……」 「それって、あんたに何か関係ある?」 首を横に振る隼瀬の手首を取り、彼の部屋に入りドアを閉め、そのまま壁に追い詰めた。緊張に掠れる声、乾いた唇と拙いキス、そして透き通る笑み。全てに業を煮やされる。 「……ほ、くと……」 「あのさ、俺があんたに何回キスしたかわかる?」 「っわか……らな……」 「二十三回。ずっと待ってた。あんたが俺のこと最低だっつって泣くの。いつになったら懲りんの?」  隼瀬の双眸が色を失い、北斗を見つめる。目の端が涙で滲む。弱いことは美しいことだなんて、そんなこと絶対に思わない。 「お、れは……」 「おれは、何。何だよ」  苦渋に表情を歪めた隼瀬の頬を涙が伝う。 「……わからない」  北斗が掴んでいる手首から力が抜け、隼瀬はずるずると背中を壁に滑らせた。胸の中でガスが膨張するような違和感があった。耳に詮をしたように、音が遠のく。それなのに、隼瀬の息遣いだけはやけにクリアに聞こえる。 「何だよ、それ」 「わかんない……おれはやめてなんて、言えないよ……っ」  両手で顔を隠し、身体を小さく丸めながら、隼瀬は苦しみを吐き出すように言った。 「……何でだよ」 「っ……」 「幻滅しろよ。最低でかわいそうなやつだって、見下してるって、はっきり言えよ」 「ほくと……」 「じゃなきゃ……いつまでも」  いつまでも、あの日の記憶に縛られる。北斗は拳を握り、歯を食いしばった。 「……北斗……っ……ん、う!?」  衝動的に隼瀬を引き上げ、強引にキスをする。理性が抑止力として働かないほど、嫌な記憶は泥のように濁って飽和していた。 「んっ……ん!」  隼瀬の口内はいつもより熱く感じられた。呼吸が出来ないらしく、苦しげな息を漏らす。戸惑いが熱とぶつかり合い、攻防を繰り広げる。 「っ……う……」 「やめろって、言えよ。こんなの無意味なんだよ」  隼瀬の身体越しに壁を叩く。歪みを求めていた。強く歪むほど、自分を否定するほど、楽になれるような気がした。ただの劣等感でしかないとわかっていても。 「……やだよ」 「は、」 「北斗にとっては無意味だっていうならそれでもいい。でもお願いだから……やめないで……っ」  壁際の隼瀬を引き寄せ、ベッドに押し倒す。白いシーツと馴染むほど、隼瀬の顔は青白かった。 「俺のこと怖いくせに」 「っ……」  目に涙をいっぱいに溜めながら、隼瀬が首を振る。感情が熱に浮き、溶けていくのがわかる。 「……俺の好きだったやつは、あんたみたいに弱くてずるい人間を選んだよ」 「……」 「俺がそいつに何したか、教えてやろうか? 何度も殴って、他のやつ使ってレイプさせた。あいつはずるいから、それが当然の報いだと思った」  隼瀬が顔の色を失った。言葉を頭の中で反芻して、またショックを受けている。ぎりぎりと胸の奥が締め上げられる。崩壊が間近に迫っているのがわかった。きっともっと冷静でいられると思っていたのに、記憶と、隼瀬が発する動揺は想像以上に北斗の芯をゆさぶった。 「そんなこと……どうして、」 「……」 「なんでっ……」 「っ……!」  行き場のない感情を散らすように、北斗はシーツを掴んだ。 「なんで? 決まってんだろ。他にどうすりゃいいかわかんなかったからだよ……!」 「北斗……、」 「普通ってなんだよ。どうすりゃよかったんだよ。どうすれば……あいつに……」 「……」  愛情を知らずに育って、その得方も与え方も知らなかった。けれどきっと、それを知っていたところで、篤史は潤を選んだに違いない。  心臓が大きく音を立てて震える。悲しみでも憎しみでもない。それは、自分が求めていたもののはずだった。世界の崩壊と再構築。何一つきれいなもののなかった過去と作り上げてきた世界をぶち壊したかった。それがもうすぐ目の前だ。それなのに。微塵の高揚感もない。ただ身体のどこかが痛むだけ。  呼吸も忘れるほどの痛みに耐えかねていると、ほくと、と隼瀬がそっと、名前を呼んだ。薄いガラスが柔らかな風に揺れるような声だった。苦痛がわずかに遠くなり、北斗は隼瀬の双眸をとらえた。 「おれ、ずっと、北斗のことだけ考えてるよ」  思わぬ反応に思考が急停止するのがわかった。笑いのようなものが零れる。 「は……なんの話してんの?」 「……初めて北斗に会った時、少し驚いた。同じ子供なのに大人みたいな目だったから。でも、目が合ったら……悲しい顔したから、だからおれがそばにいようって、思ったんだよ」 「っ……」 「初めて、助けようって……ずっと味方でいようって……思ったんだよ。あの時……だから。おれにはどうやったって北斗を責めることなんかできないよ。北斗がいつも苦しいの、見てたから……」 「……」 「好きだよ」  隼瀬の手のひらが北斗の頬に触れ、身体が重なる。  歪みが臨界に触れたのがわかった。

ともだちにシェアしよう!