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第10話

 スコールのあとの水溜まりのような浅い眠りを経て、北斗はふと目を覚ました。狭いベッドからはみ出した腕に触れる空気は冷たい。エアコンの静かな稼働音がそれを強調した。  規則正しい寝息とともに、温かく柔らかな温度を背中に感じる。北斗は短く息をつき、身体を起こしてベッドから出た。床に散らばっている下着とジーンズを拾い上げてそれらをそっと身に着ける。カーテンの隙間から白み始めた空が手を差し込もうとしている。 「……」  北斗は窓に向かって配置されたデスクに腰を預け、シーツに包まり静かに眠る隼瀬を眺めた。窓から夏の空気が揺らぎ近づく。  頭も身体もからっぽの抜け殻になったような気分だ。魂の存在を肯定も否定もしないけれど、魂が抜けるという表現は理解できる。  隼瀬を抱いている間ずっと、北斗の脳裏を占領して離れなかったのは初めてこの家にやってきた時の記憶だった。  あの時隼瀬だけが自分に微笑みかけたそれまで、誰かに面と向かって笑みを見せられたことさえなかった北斗は、真水のように透き通ったその笑みを見た瞬間、雷に打たれるような衝撃を受けた。  自分はこんな風に笑うことはできない。だから誰からも愛されない。一生、手に入らない。  人とは悪意しか寄せないものと思っていた北斗にとって、それは自然な思考だった。初めて自分に向けられた笑顔は、深く北斗を傷つけた。隼瀬の無邪気な笑みひとつで、自分の人生の価値を悟ってしまった。自分の持ち得ないものを生まれながらに持っている彼にひどく嫉妬した。そんな隼瀬がいつもそばにいて、どうしてそれに耐えられただろう。  隼瀬を抱いたことに後悔はなかった。けれど気が晴れたわけでもなかった。もうずっとすっきりしない。苛々している。隼瀬の言った通り、彼は北斗に何を言われても、何をされても、泥水のように感情を濁したりしない。粘土みたいな柔らかい心を傷つけるほどそれを思い知る。  遠く、小鳥がさえずり始めた。時計はないけれど午前四時過ぎといったところだろう。散った服の中に自分のTシャツだけが見当たらなかった。シーツの中に巻き込まれてしまっているのかもしれない。Tシャツなど放っておいてさっさと部屋に戻ってもいいと思うのに、意思に反して身体は重くなかなか動かなかった。寝惚けたことなんてないのに、頭がうまく働かない。北斗は軽く頭を振り、簡単な方程式を立て始める。数字が流れ出すと、自然と篤史のことが思い浮かんだ。北斗の作り笑顔も、努めた明るい振る舞いも、何もかも、彼は受け入れなかった。まるでそれが必死にダイヤモンドのように見せようとしているただのプラスチックだということを知っているみたいに。まがい物には興味がないと言わんばかりに。 「っ……」  ぎり、と痛みが走り、そして実感する。もう二度と篤史に会うことはないということを。あの美しい瞳を見ることも、身体に触れることも、決して叶わない。  もうずっと嫌というほど思い知ったつもりでいた。それなのに、まるで初めて悲しいという感情を知った子供のようなショックを受けている。  もう、篤史はいない。北斗の人生においてこの先永劫に、過去にしか存在することができない。  逃げ出しても、誰を傷つけても、それだけは変わらない。 「……、」  北斗は息を吸いそれを震えながら吐き出した。心音はうねり、絶望のさらに深いところに触れる。そんな場所があることすら知らなかった。  目を閉じて、このまま二度とこの目に光が差さなければいい、と願う。ゆっくりと意識を手放して、身体は溶けて雨にでも流されればいい。自分の存在を物理的に完全な無にできた時、きっと人生で初めて幸福を感じられる。胸を熱くして、広がった熱が悲しみも苦しみもすべて溶かして、永続的な安堵を知る。 「……ほくと?」  重みに頭をもたげていた北斗は、鼓膜を撫でるようなかすれた声にはっとして顔を上げた。電気のスイッチが入れられたように、一瞬で目が覚めたのがわかる。隼瀬がシーツに包まったまま半分だけ身体を起こし、驚いたような困ったような複雑な表情でこちらを見つめていた。どれくらいの時間目を閉じていたのかわからない。 「大丈夫?」 「っ……なにが?」 「北斗……、」  必要以上に狼狽えている隼瀬に眉をしかめると、ぱたり、と水滴が左腕に落ち、筋を描いた。思わず天井を見上げると、視界が揺らぎまた一滴頬を伝う。どうやら泣いているらしいと気づいたのはさらにもう一滴の感触を腹部に感じてからだった。重みのあるそれは、肌にぶつかった途端に軽くなりするすると流れていく。 「……」  どうして泣いているのか。最後に泣いたのはいつか。どうこの場を取り繕うべきか。  これまで生きてきてここまで脳の処理速度が落ちたことはなかったというほどに、北斗は混乱した。息を吸い込むと、押し出されるように涙が溢れる。手のひらで目もとを押さえ、強く圧迫する。 「あ……」 「来んな……」  北斗の制止を無視して、隼瀬がそっと近づいてくる気配があった。自分をその場に縛る鎖を引きちぎって逃げ出したいと思うのにそれができない。もどかしさに唇を噛むと、隼瀬の指先が頬に触れてしまった。冷たい指。隼瀬の手が冷たいのか、自分の身体が熱いのか、わからない。 「っ……触んな」 「いやだ」  隼瀬ははっきりとそう言って、北斗の頭を包むように抱きしめた。素肌が触れ、熱が混ざりながら平衡する。瞼を押さえていた手の力が抜け、垂れた手が机の角にぶつかった。細く薄いてのひらが迷いのない所作で北斗の頭を撫でる。それをしばらく繰り返すと、その手が北斗の顔を上げ、隼瀬のまっすぐな瞳と視線がぶつかった。 「好きだって……言ったでしょう」  いつもの自信がなく弱弱しい隼瀬の表情と声ではなかった。けれど、隼瀬自身が急に強くなったのとも違う。精一杯努めたものであることは未だに混乱している北斗の頭でもすぐにわかった。 「好きだよ……っ」  隼瀬の声がみるみる震えだし、目尻から大粒の涙が零れた。ぽろぽろと涙をこぼしながらも、必死に強い眼差しを保とうとする。 「俺は……嫌い」  涙に濡れた瞳で、声で、それがどれほどの力を持つのか、北斗にはわからなかった。実際、隼瀬は目を逸らさなかった。それでも、ほかに何を言えるだろう。今の自分にあるのは、こんな子供じみた虚勢だけだ。 「あんたが大嫌いだ」  精一杯の力を込めて隼瀬を睨む。隼瀬は怯まなかった。まるでその答えを知っていたみたいに。 「嫌いでもいいよ」 「……」 「それでいい。おれは変わらないから」  隼瀬は目を閉じ、北斗の肩口に額を寄せた。わずかに動いた北斗の手は、けれど、それ以上の行く先を知らなかった。 「っ……」  血が燃えるような感覚に北斗は咄嗟に隼瀬の身体を押し、言い淀む彼から目を背け逃げるようにして部屋を出た。意思と無関係に、喪失感を温かな液体が埋めていく。人生で初めて、頭の中がぐちゃぐちゃで、何の判断もできそうになかった。

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