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第11話

 静まり返った室内にカリカリとペンの走る音が断続的に響く。予備校の自習室の風景はいつも異質だ。一年を通してずっと緊張感と疲労感に包まれた空間など他にはそうないだろう。受験に関係のない人間なら十分だっていたくないに違いない。  焦りを払拭しようと一心不乱に机に向かう生徒たちを横目に、北斗は申し訳程度に開いた参考書の上で先日行われた模試の結果を開いた。第一志望の国立大学から滑り止めを想定した私立まで四校全ての判定はAだ。それは当然の結果で、北斗は特に何の感情も抱かない。  運動不足で頭の回転が鈍るので、気分転換もかねて徒歩と電車の通学にしたい。北斗が養父にそう申し出たのは、隼瀬と寝た日の朝食の席でのことだった。養父は初めこそ納得しかねている様子だったけれど、隼瀬の大学の試験期間がすぐ間近であること、北斗が次の模試で成績を上げて見せることを説明するとあっさり意見を変えて承諾した。隼瀬はその一部始終をただ黙って眺めていた。北斗がそうするであろう予感があったのかもしれない。 あれから二週間、北斗は受験勉強を養父母への言い訳に隼瀬を徹底的に避けて、近づく隙をほとんど与えなかった。隼瀬はあの朝以来少なくとも表面上は腹をくくったように落ち着いていて、それがいっそう北斗を焦らした。 壊れた世界から、その先への進み方がわからない。日が経つほどに汚い感情が混ざり合って濁っていく。  生来の特殊な能力を持ちながらも血の滲む思いを経て一般の思考回路を手に入れた北斗は大抵他人の感情を推し量ることができると思っていた。人間の思考は彼ら自身が思っているよりもずっと単純だ。秩序的で数学と似ている。それなのに、自分の感情の解を求めるのにはいつも項が足りない。もうずっと体内を靄が這いずるような感覚があってもどかしい。 「中原、」  遠慮がちな小声に呼ばれ振り返ると、由多加がひらひらと手を振った。ぱらぱらと近くの席に座っている生徒たちの視線が向けられ、そして散っていく。北斗は模試の結果用紙を折りたたみ、身体を由多加の方に向けた。授業のクラスが違うので由多加に会うのも久しぶりだ。そう思って、そういえばこのところ由多加からの連絡が途絶えていたということに気がついた。いつも三日と空けずに電話をかけてきていたのに。 「それ、こないだの模試の結果?」 「え、あー……」 「……と。ちょっと、出ない?」  近くで咳払いが聞こえて、それを気にしたらしい由多加がドアの方向を指さした。  自習室を出てすぐ隣の休憩スペースへと入っていく由多加のあとに続く。さほど大きくないスペースだけれど、大きな窓のおかげで自習室に比べると大分開放感がある。由多加は壁に並んだ自販機の前で立ち止まり北斗を振り返った。 「なんか飲む? おごる」 「……じゃ、アイスコーヒー」 「ブラック?」 「ああ」  由多加は二人分の缶コーヒーを買って、近くの窓に面したソファ席に腰を下ろした。ん、と左手に持っていたコーヒーを北斗に差し出す。北斗はサンキュ、と言ってそれを受け取り、隣のソファに座った。窓から見える青空が眩しい。近頃はほぼ一日中エアコンの効いた教室にいるので、空の色を見たのがずいぶん久しぶりのことのように思えた。八月に入り、連日の猛暑がすべての生物の気力を奪っている。 「なんかすごい久しぶりに会った気がするな。最後に会ったのいつ?」 「……先月だろ」  プルトップを開けながら答える。隼瀬とのことがあってから、ほとんど誰ともまともに会話をしていない。つまり、由多加と最後に会ったのもあの夜だということだ。わざわざ連絡もなしに自習室に探しにきたことといい、おごりの缶コーヒーといい、由多加にはこの数週間の沈黙の理由があり、それを話したいのだろうと北斗は推測した。 「あー、そっか。あん時か。もっとすっごい前の気がしてた。ていうか、中原授業ちゃんと出てんの?」 「出てるよ。向埜の方こそ全然見かけなかったけど?」  由多加は痛い返しを受けたとばかりに片目を瞑り、それから苦く笑った。 「そー。今ヤバいの、俺。こないだの模試も判定落ちちゃった」  そうは言うものの、由多加の表情は緩み、焦りや悲壮感は感じられない。北斗は訝しく思い眉を顰めた。 「なんで判定落ちて嬉しそうなんだよ」 「えへ。わかる?」 「いや、わかるけど」 「じゃーん。彼氏できました」  満面の笑みを浮かべる由多加に、北斗はへぇ、と驚いた風を装った。由多加との関係は割り切ったもので、それは彼にとっても同じだ。北斗の関心の薄さが透けて見える反応にも特に不満はなさそうだった。 「よかったじゃん」 「うん。今、超浮かれてんの、俺」 「浪人生のくせに」 「まぁ、ね。それはかなりヤバい。いろんな意味で。今回珍しく結構本気だし」  思いを馳せるように目を細めて熱い息を吐き、由多加はコーヒーに口をつけた。北斗は、今度は本当に少し驚いて由多加の方を見る。 「本気の男なんて面倒くさいって言ってなかったっけ?」 「だからヤバいんだって。マジで好きになっちゃった」 「はぁ?」 「恋に落ちるのって一瞬だよね。一目ぼれとかじゃなかったけど、なんか……ふとした瞬間? ばちっ、ひゅーんって。んで、底ないの。もうずーっと落ちてる感じ」  うっとりとして由多加が言う。確かに、かなり明白に恋をしている目だ。 「ま、とにかく。そういうわけで俺セフレ全部やめることにしたから」  ようやくたどり着いた主題に、北斗はやや肩透かしをくらった気分になりながらも頷いた。 「あー……ふぅん。わかった」 「さすが中原。話が早い」 「べつに、元々なんの拘束もないだろ」 「拘束……ね。まぁ、そうだけど。勝手言って悪いなと思ってさ」 「べつに」 「……てかさ、中原はどうなの?」  あっさり承諾したことが好奇心に触れてしまったのか、由多加は身体を起こして興味津々といった風に北斗に迫った。 「どうって、何が?」 「決まってるじゃん。恋愛事情」 「……残念ながら俺はただの真面目な浪人生なんだよ」 「えー、なんかないの? このでかい予備校でこんなことしてんの俺だけ?」  由多加は共犯者を探しているらしかった。恋愛を始めたばかりの者だけが陥ることのできる特別な自己倒錯感のなかに彼はいる。 「ふられたばっかだし」  余計な一言だと自覚したけれどもう遅かった。結果的にそれは由多加を喜ばせるだけだった。由多加の瞳がぎらりと光る。 「っマジ? え、誰?」 「……向埜が知らないやつ」 「あー……そっか。でも、相手のやつもったいないな。天下の中原北斗をふるなんてさ」 「……」 「でも、まぁ、次だよ、次」 「次、ね……」 「人生長いし。人間やっぱ恋しないとだめだって。大丈夫、中原にも絶対春が来るから」 「……今日の向埜ちょっとうっとうしいんだけど」 「彼氏とラブラブな喜びと受験どうしよっていう不安がぶつかって大波になってるんだな、たぶん」 「あ……そう」 「……と、俺そろそろ行かなきゃ。話聞いてくれてありがと。今度ごはんでも行こ。それは多分セーフ」  コーヒーを飲み干し、にっこりとほほ笑む。北斗は今にもスキップで走り出しそうなほど浮かれている由多加に冷めた視線を向け、頬杖をついた。 「……向埜さ、」 「うん?」 「彼氏のために死ねる?」 「何それ。心理テスト?」 「哲学」 「はぁ。んー……そうだな……うん、死ねるね。今なら」 「……」  由多加の軽い返答に溜息をこぼすと、由多加はむっとした様子で眉をひそめた。 「なんだよ。自分で聞いておいて」 「いや、そんなに好きなんだと思っただけ。彼氏と喧嘩すんなよ」 しません、と力強く言い切り、由多加は立ち上がった。 「じゃ、俺行くね」 「おー」  手を振り去っていく由多加の後ろ姿を見送り、北斗は深く溜息をついた。  ずっと、感情の収まるどこかを探している。落ちて、地面に叩きつけれた泥のかたまりは汚く醜い。 まだほとんど残っている缶コーヒーをローテーブルに置き、携帯電話を取り出しぼんやりと画面を見つめた。頭の中に電話番号が浮かぶ。それが隼瀬のものだということに、北斗は気づかなかったふりをして自習室に戻るため立ち上がった。

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