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第12話

 夜の帳と太陽の熱の名残りが溶け合う。鬱陶しい熱気のなかをするりと吹くかすかな風が夏の終わりを滲ませた。エアコンの風に一日あたり続け乾いた身体に沁みる。  予備校を出た北斗は気鬱さを抱えながら、ぼんやりとした足取りで家路をたどった。家に帰って義両親、兄弟と夕食をとる気分ではないけれど、他の誰かに会うのもひとりで街に出るのも億劫だった。理由を作って家に連絡を入れることすら面倒くさい。眠りに落ちないことはわかっていてもベッドに横になりたい。  大通りを横切り、地下鉄の駅の階段を早足で降りる。金曜日の夜の街は混みあっていてひどく騒々しい。人の波を器用に避けながら、北斗はいつまで経ってもうまくならない運転でそろそろと車を走らせていた隼瀬のことを思い出した。無意識に隼瀬のことを思い浮かべた自分に腹を立てながら改札をくぐる。  いくら考えても、望む答えに行きつかない。それならばと思考の外に追いやってみても、ふとした時に勝手に浮かび上がる。ちょうど今みたいに。自分の思考がコントロールできないことほど気持ちの悪いことはない。  自宅に着く頃には辺りは完全に夜の闇に支配されていた。いつもよりも帰宅まで時間がかかったような気がする。人混みを縫って歩いたせいかもしれないし、たぶん実際に足取りも重かった。  玄関のドアを開けると、キッチンから養母が顔を出した。 「北斗さん、おかえりなさい。夕食の準備できてますよ」 「あー……と」 「ちょうどよかったわ」  ほっと胸をなでおろした彼女を見て、たった今まで何とか理由をつけて家族との食事を回避しようと考えていた北斗は考えを改めた。数日前から養父が模試の結果を気にしていたことを思い出したからだ。息子たちがことごとく苦戦している現状からか、自分自身が第一志望合格確実と言われた現役時代に辛酸をなめた経験からか、彼はいつまで経っても北斗を信じきれない。 「……」  溜息をつきながら玄関にバックパックを下ろし、キッチンで手を洗ってから北斗はダイニングルームへと入った。  ダイニングにはすでに養父と三兄弟が揃っていた。湯気を立てる料理を見る限り、養母の言う通りちょうど食事が始まろうというタイミングだったようだ。 「あ、おかえり、北斗くん」  北斗に最初に声をかけたのは一番奥の席に座っている湊馬だった。隣にいる諒悟は北斗に見向きもせず、その向かいの隼瀬はわずかに目の端を震わせたけれど、何も言わなかった。諒悟の隣で腕を組んでいた養父が遅いぞ、と低く言った。 「すみません、遅くなって」  作り笑いを浮かべながら隼瀬の隣の椅子をひく。隼瀬と北斗の間に張った緊張の糸が変わったことになど誰も気づいていない。ぎこちないという意味では変わらない。隼瀬と自分を繋ぐものに穏やかなものなんていつだってひとつもなかった。物理的な距離を縮めてみたところで、近づいたと感じたわけでもない。それなのに。 「北斗、今日は模試の結果が出るんじゃなかったか?」  北斗のために養母が食事を盛り付けている後方を気にする素振りを見せながら養父が言う。まるで空いた時間を埋めるだけだといわんばかりに。北斗は内心でしょうもない、と内心で毒づきながら、ポケットに折りたたんで入れていた薄い紙を彼に差し出す。 「……油断するな」  紙を開くのとほとんど同時に北斗に釘を刺し、用紙を脇に置く。北斗は黙って頷き、笑みのようなものを浮かべた。彼は第一志望の大学名と判定結果にしか興味がないのだろう。はっきりと声のトーンを変えた養父とは対照的に、諒悟が忌々しそうに顔をゆがめた。  トレーを持った養母がぱたぱたとダイニングに入り、北斗の前に食事を並べる。刺身と野菜の天ぷら、それからチキンパルミジャーノに数種類の副菜が置かれた。チキンは息子たちの分だけ用意したらしい。湊馬以外は食べ盛りを過ぎた年ごろだけれど、長年の慣習を変えることができないままでいるようだった。  養母が配膳を終え席につくのを待ち、養父が食事に手を付け始めた。それを確認してから各々手を合わせ食事を始める。見慣れた光景だ。北斗はいまさら何を思うこともなく豆腐の味噌汁に口をつけた。 「……」  来年の受験が終わるまでは少なくともこの毎日が続く。この家の居心地の悪さはいつだってまるで夏が過ぎた学校のプールのように淀んで、皮膚にまとわりついてくる。 「諒悟、そういえば例の件、どうなっている」  淡々と食事を進めていた養父がふと思い出した様子で手を止めた。諒悟は逡巡ののちに少し気まずそうな表情を浮かべながら頷いた。 「あ……ええ。今日先方とは電話で。日曜日の午後に店を予約しました」 「そうか。隼瀬、」 「え……はい」  話が自分に飛んできたことに、隼瀬は驚きを通り越して怯えたようだった。瞳が不安に翳る。 「日曜日は一日空けておきなさい」 「え?」 「見合いを受けてもらうからな」  隼瀬が息を吸い、そのまま時が止まる。知っていたのは養父と諒悟だけらしく、養母と湊馬は隼瀬と同じくらい驚いた様子で目を瞠った。北斗は無表情を崩さず煮物を口に放り込んだ。濃い醤油とみりんの風味が広がる。 「お、とうさん……あの、なんて?」 「本宮の社長のお嬢さんが東京の大学出て戻ってきたばっかりで、中原先生の息子さんとぜひに、と言われてな。お前にはもったいないほどの相手だぞ」  本宮、というのはおそらく本宮医療機器のことだ。業界では中堅のメーカーだけれど、本社を東北地方に構えているためこの地域ではひいきにしている病院が多い。  見合いが成功すれば、お互い親にとってはメリットのある関係を得られるだろう。先方から持ち掛けられたとはいえ、養父は二つ返事で乗ったに違いない。ついぞ医学部に入れなかった隼瀬の将来に道筋を見たはずだ。諒悟ではなく隼瀬を相手にあてがったのがその証拠だ。  北斗は状況を冷静に分析しながら食事の速度を上げた。一刻も早くこの空間から出たい。 「そん……なこと急に……言われても」  養父の目を見た隼瀬ははっきりとトーンダウンして俯いた。養父に歯向かう手立てなど持っているはずがないし、この場にいる誰も助けることができないことくらいは彼もわかっている。 「一時はどうなることと思ったが、あそこの令嬢と結婚となれば安泰だ。将来的には病院の会計を任せるからな……まったく、社長には感謝してもしきれんな」 「っあの……でもおれ、まだ結婚なんて……っ」  意を決したように隼瀬は声を大きくしたけれど、養父の目が険しくなるのを見てまた押し黙った。 「二度も言わせるんじゃない。日曜日だ。いいな」 「……、」  傍観を貫き食事を続けていた北斗は、チキンの最後の一切れを口に放り、水でそれを流し込み立ち上がった。 「ごちそうさまでした。あ、俺は部屋に戻ります。模試の回答見直したいので」  北斗の言葉は重苦しい場の空気をあっさりと吹き飛ばした。隼瀬以外の全員が呆気にとられたように北斗を見上げる。 「すみません。先に失礼します」  笑みを浮かべると、茶碗と皿を重ねてダイニングを出る。北斗が吹き飛ばした淀みは、消えずに辺りに揺らめいていた。  隼瀬が見合いをする。うまくまとまれば、彼はこの家に存在を許される。ようやく実感するだろう。それはただ、もともと持っていたものの存在にやっと気づくだけ。それだけのこと。  苛立ちは鋭い棘となり思考を阻害する。自室の前に立ちどまり、北斗は重い溜息をついた。

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