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第13話
時間の不平等性について方程式をたてるのは難しいと、睡眠時間の短い北斗はいつも思う。何もしたくない時に眠るという選択肢がないのはとても不便だ。横になっても眠れないのは苦痛で仕方がない。いつもなら多少の効果がある疑似的な瞑想状態も感情のノイズが多くて作れない。結局机に向かって、ぼんやりと窓の景色を眺めている。量の多い夕食を無理に胃に詰め込んだせいで身体は重く思考は鈍い。夜風に揺らぐ黒い木々と電灯の光。蝉の音はもう遠い。夏が終わる。
不安定に揺らぐ心の波を北斗はただ疎ましく思った。感情は人間の欠陥である。重大な欠陥をかかえたまま人は生まれ死ぬまで生きる。何度どう考えたってそれを美しいとは思えなかった。ただ醜くなるばかりだ。
「……」
溜息は重く辺りをたゆたう。戻ってこなければよかった。そう思って、今度は短い溜息をついた。いつか湊馬に言われた一言が脳裏をかすめる。
目を閉じて息を吸い込むと、ほんの少し思考はクリアになった。次いで、遠く木を叩くような音が響く。世界が切り替わり雑音が戻る。誰かが部屋のドアをノックしているのだと気づくのに数秒かかった。
「……はい、」
ノックに答えると、ドアは沈黙した。隙間から漏れる迷いで、来訪者が隼瀬であることを悟る。
「……」
十秒ほど待ったけれど、隼瀬が部屋に入ってくる気配はなかった。彼の緊張はまだドアに張り付いている。北斗は短く溜息をついて、立ち上がりドアを引いた。ノックしていたらしい右手を宙に浮かせたまま硬直していた隼瀬は、北斗を見上げぎこちない笑みを作った。
「あ……これ、玄関に忘れてたみたいだから」
頼りなく揺らぐ声でそういいながら、左手で抱えていた北斗のバックパックを差し出す。北斗はまた溜息をつき、バッグごと隼瀬の腕を取り部屋に引き入れる。ドアを閉めると、部屋の中にあっという間に緊張が満ちた。隼瀬と二人きりになるのはあの朝以来だった。心臓が不安定な波を送り出している。
「ごめん」
「……何が」
「ほんとは何て言ったら話してもらえるかなって、考えてた」
バッグをドアの横に置きながら、隼瀬は苦く笑った。避けていたことを知らないはずはなかったけれど、そのことに言及してきたことに北斗は少し驚きながら勉強机に腰をあずけた。まだ見合い話のショックが抜けないのか隼瀬の顔は青白く声も掠れ気味で、必死に取り繕おうとしているのがわかる。
「なんか話?」
「……、」
「さっきの見合いの話なら、俺にはどうにもできないけど?」
北斗の牽制に隼瀬はぎくりと目を瞠らせ、それから困ったように眉を下げた。
「北斗っていつも、おれの十手先くらいを見透かしてるよね」
はぁ、と息をついて、壁に背を預ける。ほんの二、三メートルの距離が、今は長く感じられた。ここに戻る前の自分だったら耐えられないような近距離だったようにも思うのに。
「……いいんじゃないの? あんただってこの家に必要とされてたいだろ」
「……」
隼瀬の曖昧な肯定に感情がぎこちなく揺らぎ、北斗は髪をぐしゃりとかき混ぜた。窓を開けたい衝動に駆られたけれど、もし他の誰かが同じように窓を開けていたら隼瀬との会話が筒抜けになってしまう。それに、生ぬるい夏の夜風を入れたところで、この居心地の悪い緊張感が緩和するとも思えなかった。
「……要領が悪くて、不器用で……あんたみたいのは、結局ただ黙って誰かに手、引かれてるしかないんだよ」
そうだね、と答える隼瀬の声が、消えかけのろうそくの火のように切なく震えた。きっとまたすぐに泣きだすに違いないと思っていたのに、隼瀬が必死でそれに耐えるせいで言わなくてもいいことまで言ってしまった。胸の奥のかすかな痛みを、けれど北斗は無視した。遅かれ早かれこうなることは決まっていた。あの夏の日からずっと。それが今このタイミングだったのも必然に違いない。
隼瀬がゆっくりと息を吸い、それをそろそろと吐き出した。長い時間をかけて、心の震えを押し込めるように。
「…………ごめん。けど、おれ、北斗にどうにかしてもらおうと思って、来たわけじゃないよ」
「……」
「北斗の言う通り、おれは頭も要領も悪いから……できることなんて、最初からひとつだけだったよね」
「……」
「おれ、大丈夫だよ。もう……決めたから」
何を、と尋ね返しそうになって、北斗は押しとどまった。何をか、なんて決まっている。見合いを受けて、向こうの意向に沿えば結婚する覚悟だ。隼瀬の声は依然として覚束ないけれど、意志は見て取れた。
隼瀬を傷つけて、おもちゃのような子供じみた幻想をぶち壊して、そして幼いころからの呪いを解く。根拠はなかったけれど、それで自分の無能感を拭えるのではないかと期待した。けれど現実は、ただ自我が崩壊して傷になり化膿し痛みを生み続けている。
「……そ」
内心の動揺を押し込めて、ぶっきらぼうに相槌をうつ。隼瀬は壁に寄りかかったまま手を組み、小さく頷いた。
「けど、北斗には誤解しないで欲しいって、思ったから……おれが北斗のこと好きだって言ったのは、本当だよ。北斗がおれのこと嫌いでも、憎くても、おれはずっと好きだった。ずっとそばにいて、ずっと守ってあげたいって、思ってた」
「……なんで俺があんたに守られるんだよ」
北斗は思わず笑ったけれど、隼瀬は表情を崩さなかった。
「おれは弱いけど、でも、北斗だって弱いの、知ってる。いつもひとりで悩んでる。他人に気づかれたくないだけ」
「……別に」
「北斗を見てきたことだけは、誰にも負けないから。それくらいはわかるよ」
遠慮気味に、けれどはっきりと隼瀬は言った。諦めと反発がぶつかりあった息遣いはフラットで、それが北斗の心を乱した。どんな関数にも乗らない感情を抱える気持ち悪さがむくむくと広がる。
「北斗が帰ってきて、昔じゃ考えられないようなことが色々起きて……正直いっぱい泣いたけど……泣いただけじゃなかった。やっぱりおれは、北斗のことが好きだよ。ずっと、初めて会った時から」
視界の色相が段階的に変わり、色が失われていく。篤史の時の喪失感とは明らかに質が違うなにかだ、と北斗は思った。崩壊したがれきの山が沼に飲み込まれていくような途方のなさがあった。
こんな時、心情がまるで表情に出ないことがいいことなのかどうか、判断ができなかった。隼瀬はまるで台風一過の朝の空のように澄んだ目を細めて見せた。一目見て大嫌いになった、あの笑みだった。
「……ごめん、勉強の邪魔だったね」
「……」
「話、聞いてくれてありがとう」
隼瀬は壁につけていた背中を起こしもう一度微笑むと、静かに部屋を後にした。
好きだ、と告げた彼の瞳に、答えを待つ素振りはなかった。きっと必要なかった。もう。
冷静な頭とは裏腹に、じくじくと身体の中心が疼く。北斗はその痛みを素直に受け入れることができずに、ただ沈黙するドアを見つめた。
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