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第14話

 暴力的なほどの強い日差しが濃い青空から降り注いでいる。さまざまな種類の蝉の音が耳ざわりだ。  人気のない早朝の通りを早足で歩きながら、北斗は時おり眩しさに目を細めた。日曜日の朝のにおいが憂鬱さを際立たせる。一歩進むごとに身体にまとわりつく夏の空気が重くなるような気がした。  難関大の医学部への合格を目指す浪人生に日曜日など関係ない。今日は朝から夜の八時まで講義がつまっていて、それは北斗にとってはありがたいことのように思えた。講義を聞いているふりをしているだけでも、一人で終わりのない思考を巡らせているよりはいくらかましだ。  隼瀬も自分も、それぞれの行き止まりに立っている、と北斗は思う。違うのは、隼瀬には分岐があるということ。そして彼はそちらを進むことを選んだのだということ。  予備校の校舎が近づくと、周囲にちらほらと生徒らしき人影が浮かび始める。まだ受験まで半年あるとはいえ皆疲労の色を隠せずまるでホラー映画のゾンビのようにふらふらと歩いている。医学部の受験生は家のプレッシャーが重い者が少なくなく、体力以上に精神力を削られているようだ。北斗は溜息をつきながら彼らに合わせるように歩調を緩めた。  隼瀬の見合いは十一時から養父がひいきにしている料亭で行われることになっている。この日のために隼瀬は長めだった髪を切った。朝食の時に顔を合わせた隼瀬の表情はどこかさっぱりとして、もう全てを受け入れていることを物語っていた。 「おはよー」  いつのまにか周囲のゾンビに後れをとるほど歩調が落ちていた。暗闇に浮かんだ光の点をつかむように、北斗ははっとして頭を上げた。振り向くと、由多加が軽やかに手を振っていた。 「……向埜」 「う……なにその声。なんか怒ってる? 目、すわってない?」  無自覚な指摘を受け、北斗はまた溜息をついた。いつもほど取り繕う気分にもならない。 「……べつに。ただの夏バテ」 「あー、ね。今日もあっつい……」  じりじりと輝きを増す太陽に手をかざし、今度は由多加が盛大な溜息をついた。 「中原一コマ目なにー?」 「長文読解」 「げぇっ。だるいやつー……なー、コーヒーでも飲みにいかない?」  ふいに立ち止まり、予備校とは別方向にあるカフェを指さす。チェーンのカフェは日曜の朝の静かな光をどこか受け入れがたそうにたたずんでいる。ここからでも中にほとんど客がいないことが窺える。 「またのろけ?」  北斗が釘をさすと、予想に反して由多加は苦い表情を浮かべた。 「違う、逆。喧嘩してるから。大喧嘩」 「……」 「だめ? ぜんっぜん講義受ける気分じゃないんだよ」  部外者の北斗にとっては喧嘩ものろけも大差はないような気がしたけれど、そういう意味では英語の講義も同様だ。太陽の熱は温度をあげ、端から焦がしていく。思考すら面倒になって、北斗は促されるまま由多加のあとに続いた。  開店したばかりのカフェは一秒の長さが定義に従っていないようだった。人気のポップスのアコースティックカバーが余計に空間を間延びさせている。朝からやけにはきはきと対応する店員から飲み物を受け取り窓に面したカウンター席につく。目の前の通りをうつむき加減の予備校生たちが急ぐ。 「空いてんね」  アイスのカフェモカにストローを差し込みながら由多加が辺りをきょろきょろと見回す。 「まだ朝早いし」 「まぁ、そっか。日曜の朝八時にこんなとこ歩いてんのは俺らくらいか……」  手持無沙汰にストローをいじりながら由多加が大きなため息をつく。ネガティブなオーラが周囲の次元を歪ませるのを感じながら、北斗はカプチーノを啜った。 「悪いね、つき合わせちゃって」 「いいけど、べつに」 「はぁ、中原は今日も優しい」 「コーヒーにつられただけ」 「そういうとこ。喧嘩したって聞いても自分からはつっこんでこないじゃん? 俺が話し始めるの待ってくれてる」  それを優しさと呼べるのかどうか、北斗は少しの間考えた。そんなものかもしれない。北斗は由多加があれこれ詮索を受けるとかえって気を削ぐタイプであることを知っていた。もはや無意識の世界で計算されている言動にそんな名前がつくことは滑稽だ。 「あーあ、俺、中原のこと好きだったらよかったのに」 「何だよ、今さら」 「優しいもん」 「だって、向埜は優しくない男がいいんだろ」  由多加は少し驚いたように瞬きをして、それから力なく笑った。 「それね」 「人間って刺激を求めるように設計されてるからな。波が立たないと乗れない」 「でも波が立ったら立ったでしんどいよ」 「……原因は?」 「志望校が大阪なのがばれた」 「は?」 「去年は地元の国立受けて落ちたから今年も同じとこ受けるって思ってたらしい。遠距離自信ないとか言われて俺も遠距離ごときで何言ってんの? みたいになっちゃって」 「で、喧嘩?」 「大喧嘩。てかほぼ破局」  北斗は反応に困り、誤魔化すようにカプチーノをゆっくりと口に含んだ。由多加はつっこまないでくれ、と言いたげに口をまっすぐに結んだ。 「……遠距離……ね。ていうか、別に今年もこっちで受ければいいだろ」 「親父が……ただの浪人はかっこつかないから去年より一個レベル上げろって。六月の模試で判定Bだったから盛り上がってるし……先月のはDだったけど、言ってないし」 「それ彼氏に言ったの?」 「そこまで間抜けじゃねーよ。でも納得させられなかった。そりゃそうだよな。俺だってなんでわざわざ遠くの大学受けるのかわかんないんだもん。去年と同じじゃかっこつかないって、親父以外に誰がんなこと気にするんだよって」 「死ぬくらいなら親の説得くらいなんてことないんじゃないの?」 「は……死ぬ? 死ぬってなにが?」  由多加がきょとんとして首を傾げた。 「彼氏のために死ねるって、言った」 「は?」 「彼氏報告のときそう言っただろ」 「え……あー…………うん、そういえば言ったかも。でも、まぁ、そんなの言葉のあやじゃん?」 「……」 「え、怒ってる?」  表情を険しくした北斗に由多加が慌てる。北斗は溜息をついて首を振った。 「怒ってない」 「まぁ……そうだなぁ……彼氏のために死ねるとか、死ぬ気であの頑固親父説得してみるかとか……できないし、嘘だけど。でもさ、超大好き! もう死んでもいい! ってとき、あるじゃん?」 「……さぁ?」 「あるの。そういう意味で死ねる。俺は中原のために死ぬって思ったことないけど、彼氏のためなら死んでもいいって思ったんだよ」 「死なないじゃん」 「死なない。怖いもん」 「彼氏を失うよりもかよ?」 「向埜家は親父が絶対なの。浪人生の分際で親父の命令にたてつくなんて絶対無理。それこそ死ぬ。中原ならわかるでしょ?」 「……」 「せっかく入った大学二か月で退学してこっちの大学受け直すために連れ戻されたんでしょ? うちの親父も俺がこっそり私立入って家出ようもんならそれくらいするよ」  目の前の通りの人影が急に少なくなった。もう一コマ目の講義が始まる時間だ。閑散とした景色をぼんやりと眺めながら、北斗はふと隼瀬が父への説得を試みもしなかったことについて考えた。由多加も隼瀬も親への反抗の手段を知らない。幼いころからそう育てられてきているからだ。 「……わかった。悪かったよ。悪いのは理解の足りない彼氏のほう」 「そういうこと……まぁ、でも何言ってももう、終わりだけど」  力強く頷いたあとで、苦く笑う。強がっていつもの調子を演じようとしているけれど、珍しく由多加は本当に参っているようだった。できることとできないことはあっても、死んでもいいと思えるほどの愛。これまでそんなものを美しいなんて一度も思ったことはなかったけれど、ただほんの少し、心臓の表面が焦げたようなにおいがした。 「……中原はいいな」  由多加の唐突な呟きに北斗は思わずカプチーノを吹き出しそうになった。 「は?」 「頭いいし、かっこいいし性格もいいししっかりしてるし……俺、中原になりたかった。もっと強くなりたかった」 「さっきは好きになったらよかった、で、今度は俺になりたかったって?」 「根本的に俺、自分が嫌いなんだよ。大嫌い」  頬杖をつき淀んだ表情で何度目かのため息を散らす。北斗は自嘲を漏らしてしまいそうになるのを慌ててこらえた。 「俺はなれるもんなら向埜になりたかったけど」  それ、今言う、と由多加が眉を顰めるのと同時に、カウンターの上に置いていた北斗の携帯電話が着信に振動した。登録していない番号なので名前は出なかったけれど、北斗はもちろん、その番号がどこからのものか知っていた。逡巡ののち、由多加に断りを入れて席を立ち、少し離れたところで電話をとる。 「……もしもし?」 「授業中じゃないのか?」  北斗が電話に出たことに諒悟は驚いたらしかった。番号は家の固定電話からのものだった。何の用かは知らないけれど自分でかけてきておいてなぜそんな質問をするのか理解できない。北斗はそれを口には出さなかった。北斗の講義のスケジュールを把握したうえで聞いているわけではないことはわかっている。 「この時間は自習だよ」 「あぁ……」 「何。諒悟兄さんから電話なんて珍しいね」  すぐそばにいる由多加のことを考慮し、できるだけ棘のない口調を心がける。ここからでは会話の内容は聞こえないだろうけれど。諒悟はそれを不審に思わなかったようだけれど、どこか挙動がおかしい。 「……北斗、おまえ朝食のあと隼瀬に会ったか?」 「いや? なんで?」 「隼瀬がいない」 「いないって? どっか散歩にでも行ってんじゃないの?」 「出て行ったらしい。隼瀬の部屋に書置きがあった」 「……は?」 「お見合いは受けられません。今までお世話になりました。さようなら」  身体を廻る血液が一気に逆流し、魂ごと力が抜けるような感覚が走った。細いレーザーで頭を一直線に撃ち抜かれたように一瞬で思考が止まる。頭が動かない代わりに感情が波打つ。北斗はこめかみを押さえ、息を吐いた。 「……冗談」 「俺はおまえに冗談は言わないし、隼瀬の書置きはどうやら本物だ」 「……そんな器用なタイプじゃないだろ。すぐ近くにいるんじゃないの?」 「心当たりはもう全部探した」  きっぱりと言い切った諒悟からはすでに諦めの気配が漂っていた。いくら養父が説得に応じるはずがないとはいえ、見合い話を蹴るために家を飛び出すなんて。あの時の決意は見合いを受けることではなく家を捨てることに対してのものだったというのだろうか。あの隼瀬がそんなことを考え行動に移すなんて、にわかに信じがたい。 「……親父は?」 「ものすごく怒ってる」 「連れ戻すって?」 「親戚と隼瀬の同級生にあたったけど誰も何も知らない。もう間に合わないだろう。見合いに間に合わなければ終わりだ」  大事な取引先の令嬢との見合いを反故にして父の顔に泥を塗れば、隼瀬はもう家には戻れない。諒悟の言う通りだった。そもそも隼瀬だって時間がなかったとはいえそれなりに計画を練って行動に移しているはずだった。成人男性が書置きを残して失踪したくらいでは警察も動かない。  北斗が何も知らないことを告げると、隼瀬の中学と高校の同級生にもあたってみる、といって諒悟は通話を切った。時間の無駄だ、とは告げなかった。  ゆっくりと、思考回路が動き始める。心音がうるさい。雑音はまるで大津波のように思考を邪魔するのに、北斗はその感情を言語化できそうになかった。

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